ドルチェ銀座東弐番館

ドルチェ銀座東弐番館 外観
ドルチェ銀座東弐番館は2008年竣工、RC構造、総戸数35戸の賃貸マンション。大成建設系の有楽土地は、昭和28年の創立、当初はもっぱら大成建設のための施主への土地の仲介あっせん、土地買収などをしていたが、30年代に入ってからは小規模な宅地分譲をしていた。40年代に入って、郊外での中層住宅団地マンション団地)、市街地でのマンションの建設に乗り出した。とくに郊外の団地については、住宅公団のアパートを30年代はじめから建ててきた大成建設、大成プレ(集中大量建設のメリットを最大限に発揮した。その現場は一ヵ所で数戸というもので、コストダウンによる分譲価格の低廉化、それに団地方式による環境の整備といった特色で、販売も好調だった。代表的なものとしては、「新原町田グリーン(624戸)、「鵜の森団地」(302戸)、「稲毛」10戸)などがあった。有楽土地の創立は、大成建設の部長であった竹内弘を中心に進められたもので、竹内はその後、いったんは大成建設に帰り、副社長をした上で、有楽土地の社長になった。日本高層住宅協会の副理事長もつとめた。関西で創業(昭和21年)、26年に東京へ進出してきた長谷川工務店は、40年代はじめには、他社のマンションエ事の受注をしていた。発注者は日商岩井、兼松、蝶理、大丸、太平洋興発、蛇の目不動産(蛇の目ミシン系)などであった。とくに、日商岩井のマンションは、そのほとんどを受注していた。これらの受注は、たんなる工事受注ではなく、土地を探し、建設・経営計画をつくり、一体のプロジェクトにして施主会社へもっていき、その上で工事を受注し、さらに販売も担当するという、いわば一貫してのプロモーター兼業務担当といったやり方であった。やがて自社物件としてのマンションも建てるようになった。創業者であり、社長であった長谷川武彦は、「自分の会社でもマッション事業をやることによって、その経験を生かし、施主会社により充実したサービスができる」として、自社建設にも力を注ぐことにしたのである。東京へ進出した後も、関西地区での事業も活発に行っておりヽ自社マンション第1号は芦屋であった。工法については、44年に「クールーシステム」を開発、採用し、さらに45年には谷川式トラス・アッドーウォール工法」を開発したまぺ45年にはマンション部を新設しさらに、聴営皿業一証部こ(若い女性の住宅販売担当者)在当者乙を置き、注目された。まだ、住宅業界への女性進出がほとんど見られなかった時代である。45年にはこのほか、直系の長谷工不動産を設立、マッションの建設、分譲を強化した。44年、長谷川は会長となり、副社長の水上芳美が社長に就任した。水上社長時代、マンション事業はさらに拡充され、その供給戸数が業界のトップという時代もつくった。同藤和の面開発、角栄の庶民路線フジタエ業(旧・藤田組)系の藤和不勣産は昭和32年の創業。この会社の創立事情も前記した大成建設丿有楽土地のと似ておりには、親会社の建設事業活勣への補助業務を担当した。藤和不動産の社長には、創業の際、フジタエ業社長藤田定市の次男正明が就任した(その後、正明は参議院議貝となり、大蔵政務次官などをした関係で社長をひいた)。本格的に自社独自の不動産業を展開し始めたのは34年からで、東京はじめ大阪、広島(藤田組創業の地)、福岡などで宅地造成事業を活発に進め、さらに、39年に着工した那須「イランド」(別荘地、約960ヘクタール)の広大な開発は、その規模、施設内容などにおいて、わが国の代表的な別荘地開発の一つとされた。42年から市街地のマンション建設に進出、「東中野コープ」、「初台コープ」、「方南町コープ」、「湯島「イタウン」、「三ツ沢タウン」などを建設した。「湯島「イタウン」は、束京・文京区湯島の旧岩崎邸の1部約6600平方メートル(約2000坪)に建てたもので、2棟6階建て、当時、市街地のマンションとしては最大級のものとして注目された。45年春に完成したが、内部に保育園や特定郵便局も設け、文字どおりの「「イタウン」―「高層住宅の街」といわれた。「三ツ沢タウン」は、横浜市の約2万平方メートル(約6000坪)の土地に、5階建て1棟という大規模な面開発で、これもプールや公園を備えたものであった。昭和30年代に、わが国最大の建売住宅業者であった角栄建設も、40年代はじめ、マンションにも進出してきた。近隣施設:中央区役所

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