ガラ・シティ京橋

ガラ・シティ京橋は、2002年竣工、SRC構造、総戸数68戸の分譲賃貸マンション。開発は、その規模、施設内容などにおいて、わが国の代表的な別荘地開発の一つとされた。42年から市街地のマンション建設に進出、「東中野コープ」、「初台コープ」、「方南町コープ」、「湯島」、「三ツ沢タウン」などを建設し「湯島「イタウン」は、束京・文京区湯島の旧岩崎邸の1部約6600平方メートル(約2000坪)に建てたもので、2棟6階建て、当時、市街地のマンションとしては最大級のものとして注目された。四五年春に完成したが、内部に保育園や特
定郵便局も設け、文字どおりの「イタウン」「高層住宅の街」といわれた。「三ツ沢タウン」は、横浜市の約2万平方メートル(約6000坪)の土地に、5階建1棟という大規模な面開発で、これもプールや公園を備えたものであった。昭和30年代に、わが国最大の建売住宅業者であった角栄建設も、40年代はじめ、マンションにも進出してきた。角栄建設の社長角田式美(現・顧問)は、戦後の二七年、広島県から上京し、30年ごろから建売住宅業を始めていた。はじめは東京・板橋区で2.3戸単位の小事業であったが、33年に角栄建設を創立して以降、事業規模を大きく広げた。「朝霞団地」「志木団地」「狭山ケ丘団地」と次々に大型の建売住宅団地を建設、分譲した。さらに、都市の諸施設を完備した住環境、一つのコミュニテイの形成をめざす、という「角栄方式」を打ち出し、39年には2500戸の「霞が関団地」の建設を進め、40年春には3800戸の「志津団地」の建設に着手した。この間の38年、角田は、有力建売住宅業者と協議して、日本分譲住宅協会(現・日本(ウスビルダー協会)を設立、自らその初代理事長となった。 角田は、マッショッ進出について、創業時代から掲げてきた。庶民に大衆価格でより良い住まいを供給するという方針を、市街地の高層住宅でも実現しようと考えたのであった。41年7月、社内に高層住宅開発委員会を設け、委貝長には社長自らがあたることにした。後に開発部長となった土屋俊二は、当時は入社8ヵ月目の新社員であったが、この検討研究を担当させられた。土屋は当時のことを次のように語っている。「社長に呼ばれて社長室に行くと、社長から突然、『マッショッについて検討せよ』と命じられた。当時、私は社長室に所属し、企画・調査の仕事を担当していたが、正直にいってマンションについてはほとんど知識がなかった。また、第一次ブームが終わって、マッショッは後退気昧のころだったので、。いまからマンションということには疑問を抱いた。しかし、社長は強い確信をもっていたようだ。さらに『マンションの検討では、どんなことから手をつければいいと思うか』とたずねられた。そこで、『まず、業界の動向調査、それに企画内容の調査、販売と管理面についての研究からやるべきだと思います』と答えた。実に、これがわが社のマッション事業の第一歩となったわけだ。マンション業界では高級化ブームが去って、大衆化への動きが出始めた矢先のことであった。角田はこのときすでに強い確信をもっていたというが、やはり耘換期の進行をみて、いよいよマンションにも大衆価格の時代が到来、と判断し、。角栄の出番がきたと考えていたようである。41年9月、マッション第一号にこれが竣工した。近隣施設:スーパーサンコー

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