グランダジュール八丁堀

グランダジュール八丁堀 外観
物件裏手には桜川公園、徒歩数分で隅田川も流れリフレッシュに抜群の環境に建つグランダジュール八丁堀。大手不動産なども競って参入し始める時期になり、先発の住友商事、野村不動産昭和は40年ごろから43、44年にかけては、従来の専業的なマンション会社以外の、建設業、商社、大手法人系の不動産、さらには大手不動産などが、続々とマンション業に参入してきた。また、30年代末ごろに参人していた有力企業も、この時代になると、さらにマンション事業を強化した。マンション業界は急速に拡大していった。これらの各社の動きを概観してみよう。商社では、丸紅や住友商事が、すでに30年代末に参入していた。丸紅の第一号は38年6月竣工の「田園マンション」、住友商事の第1号は39年9月竣工の「メゾン西宮」であった。丸紅は、上記の第1号は別に施主があって工事請負方式のものだったが、40年1月には、自社物件第1号の「牛込台マッショッ」を完成、また、43年8月に竣工した「朝日レジデンス」は、札幌市でのマンションのはしりをなすものであった。
住友商事は、41年3月に、関東地区での第一号「久我山「イム」を完成させた。これ以降、同社は、関西地区では「メソンーシリーズ」、関東地区では「「イムーシリーズ」を次々と建設していった。関束の方がマンションの先行性もあって、やがて、後発の関東の方の建設が関西を上回るようになった。43年11月に、不動産本部制をとり、マンション事業は、この本部内の住宅部(東京)、不動産開発部(大阪)で担当するようにした。住友商事のマンションの特色の一つは、そのほとんどが同系の日建設計(わが国の最大の建築設計会社)の設計監理で、わが国のマンションの構造などで代表的なものといわれ、四三年に竣工した「馬事公苑」には、皇太子が新しい住居についての学習として視察されたこともあった。やはり旦20年代末に参入していた野村不動産(野村証券系。第一号は39年8月竣工の「コープ竹の丸」=横浜市)も、42年からマンション事業を本格化。43年には「コープ戸山台」、「コープ恵比寿」、「コープ長原」を相次いで完成させた。また、40年ごろから、「西荻野村」、「下馬野村」、「逆瀬川野村などを建設し、法人向けに一括分譲や一括賃貸をしていた。野村不動産は32年4月に設立されたが、そのとき、社長には証券副社長の平山亮太郎が、専務には同専務の磯野萬亀男が就任した。磯野はその後社長になったが、証券時代から不動産に明るく、専務時代の37年秋、欧米不動産事情を視察して帰国後、『欧米の不動産信託』、『米国の不動産金融』という2つの小冊子をまとめて刊行した。その内容には、欧米の抵当証券事情なども含まれていて、当時のわが国ではもっとも斬新な知識をまとめたものであった。有楽、長谷エの進出、朝日建物と同じく木材業から住宅産業に進出してきたニチモ(当初の社名はニチモプレ40年ごろからマッション業に参入してきた。同社を創業した寺田順三、慶穂兄弟は、20年代は家業の木材業(寺田木材)を営んでいた。30年秋、南海ブロックを設立、ブロック住宅の供給を企図したが、これは実現できず、次いで31年6月には大阪モデル住宅と改称、軽量鉄骨住宅の研究を進め、中層建築の請負工事を始めた。35年にはまた社名を日本モデル住宅と改め、ブエ法によるアパートなどを建てるようになった。36年にはまたニチモプレと社名変更、鉄骨とヘーベルによるニチモコーポラス(NC)工法を開発、東京第一号の「目黒第一コーポラス」、大阪第一号の「芦屋第一コーポラス」を建設した。1戸当たり500万から600万円という価格で、市民一般の好評を博し、売り出しごとに抽せんという時代が続いた。当初は中層が主だったが、工法開発によって1.2階建て、1棟で100戸以上のものも増え、40年代半ばでは、供給戸数のトップを続けた。45年度の東京地区でのマッション供給ベスト5は次のとおりである。近隣施設:マルエツプチ

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