アクシルコート銀座イースト

アクシルコート銀座イーストは、東京メトロ有楽町線『新富町駅』より徒歩3分の中央区新富にある2001年11月築の地上12階 地下1階建て、総戸数105戸、RC(鉄筋コンクリート)造の高級分譲賃貸マンション。土地は,岩手バ栃木,群馬から兵庫の諸県下に及ぶ182物件,価額110万円余に達しており,このほか北海道での三井物産所有の担保流れの上地11万円余をも引き継いでいる。このころ銀行,物厘,呉服店を初めとして,22年に官営の払下げを受けた三池炭礦と神岡鉱山を併せて25年に設立された三井鉱山合資会社,そして新設の工業部への投資など,資公需要の大きかった三井にとって,不急の所有地を処分して資金の流動化を|ま|るために噂門の晟関を新設したと解することは,-見無理のない推測であろう。しかし,地所部新設の目的は,単にそれだけのものではなかったと考えられる。三井元力正員のひとり二井復太郎を部長に据え,二井物産理事馬越恭平を初代理事に迎えて明洽27年10月に発足した三井地所部は,その職務章程の第2条に,「三
井地所部八地所建物ヲ管理シ其保存営設及ヒ収益ノ事務ヲ掌ル」と規定されていて,売却処分をとくに表面に示してはいない。また元方総長の認可を要する事項を定めた第7条では,①地所・家屋の買入れ,②1000円以上の地所・家屋の売却,③1000円以上の家屋新築または土木起工,④10000円以上の借入金,⑤取引上の出訴,⑥損益決算,⑦4等級以上の職貝の任免鸚昨,⑧重要な契約締結を列挙しており,少なくとも規定上は売却に圭眼をおいていない。明治27年10月に発足し,31年11月の組織改正で三井銀行に介併したわずか4年匿しか俘在しなかった三井地所部の事績の全容は,記録の欠如もあって,十分に知ることができない。わずかに,28年~31年末までのあいだに同部が同族会および三井商店理事会(29年9月に設立された統轄議決機関)に提出した議案108件の内訳が,売却58件,買入れ25件,工事25件となっていて,所有地の処分がやはり必要な仕事であったことは認められる。しかし,上記のような銀行および物産の膨大な担保流れのうちのどれだけの部分を処分し得たか,疑いなきを得ない。それのみならず,31年11月に地所部が銀行に合併され、引き継いだ銀行からの買受物件価額は126万9000円余となっていて,地所部設置当初の価額110万円を上回った。(三井家家産部分等を加えれば325万8000円余)地所部時代に新しく買い入れた地所のなかには,監獄跡地のように,後年に至るまで長く寄与し続けたものも少なからず含まれているのを見逃してはならない。規模が大きく,将来有望な土地を買収すること乱職務章程第7条の第1項にかかげられているとおり,地所部の重要な業務であったことは確実である。明治29年6月,二井地所部は同族会に対して組識を合名会社に変更する案を提議している。議案が伝わっていないために,計画の内容を知ることができないのは遺憾であるが,当時の三井元方傘下にあった銀削物産,鉱山,呉服店の4会社に比較すると,利益金額からみれば地所部のそれは呉服店を上回っていたから,三井地所合名会社とでも称する独立会社への昇格を希望したのであろう。しかしこの案は同族会で否決されたため,実現しなかった。独立会社案の否決を受けた地所部は八司年12月に,改めて部内に土地建物売買係」の新設案を提議した。従来,土地・建物の売買・賃貸に仲立人を介してぎたのに代えて,白ら売買をする。これによって少なくとも年間1万円の純益を徘る見込みがあるとしている。しかし,三井首脳部は,この提案をも杏決した。要するにこのころの地所部が志向したところと,三井首脳部の地所部への期待とのあいだには,どれほどかの乖離あるか推測される。当事者としての三井地所部の意中にあったものは,銀行,物産の流れの上地の処分だげでもなければ,単純な不勣産の売買ないし忖介の利を侑ることでもなかったのである。アクシルコート銀座イーストの最新の空き状況はこちらから!

 

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