レジディア勝どき

レジディア勝どきは都営大江戸線「勝どき駅」徒歩3分の中央区勝どきにある2008年2月築の地上12階建て、総戸数54戸、RC(鉄筋コンクリート)造のハイグレートマンション。第三次マンションーブームから激動の時代に突入します。昭和43、44年には、第二次マンションブームが続いていたが、翌45年になるとマンション市場は、一種の中だるみ的な状況に移っていった。45年からの金融引き締めやマンション販売価格の上昇などで、売れ行きが全般的に鈍化してきた。
日本高層住宅協会の調べ(45年6月)によると、「44年度1年間に売り出されたマンションの販売状況を、45年6月現在で調査すると、販売速度指数(売り出し経過期間に対する契約率の比率)は34.8で、平均して全戸数を売り切るのに約9カ月かかっている。これは前年同期の販売速度指数(売り切るのに約5ヵ月)に比べて、半分に低下、売れ行きの鈍化を示しているということであった。43、44年度のブーム期には、束京全区では年間約2万戸のマンションが建設、販売されており、年間建設の住宅総戸数が約21万戸だったので、約1割がマンションだったということになる。住宅を求める人の10人に1人がマンションを買ったということだ。やはりブームといえるものである。この10人に1人の需要層は、この時期にはだれもかれもというのではなく、だいたい中堅層たとえば企業の一般管理職以上、といった人々であった。これらの人々の需要がざっと一巡したということもいえよう。そこへきて、ブームだというので、さまざまな業種の企業がマンション市場に進出してきた。そのなかには、「今後、本格的にマンション事業をやっていこう」というのもあったが、「マンションが景気がいいようなので、ひともうけするか」といった調子のものもあったようだ。そして、一部で建設過剰の気配もでてきたし、また、金融引き締めによるローン枠の縮小という悪材料もでてきた。さらに、地価上昇、建築費の上昇による販売価格の上昇ということも重なった。第二次ブームの初期の1戸あたり分譲価格は300万~400万円が中心だったが、2年あまりのブーム期の間に分譲価格が約2倍の600万~700万円中心となった。ところで、当時の一般市民の住宅購買力の限度額となると、この2倍になった600万~700万円とみられていた。45年度から実施された住宅金融公庫融資付きマンションでは、対象を一般向けに限ることとし二般公開分譲)、その価格を700万円以下としていたのは、こうした有効需要の限度額を考えてのものであった。また、日本高層住宅協会は45年10月から東京・銀座の松坂屋デパートに、一般需要者にマンション情報などを提供するマンションーコーナーを設けたが、このコーナーにやってくる人々の希望傾向でも、600万~700万円台のものに需要が集中していた。販売価格の面からも、第二次ブームの後には、いったんは客離れがあったが、やがてまた46年ごろになると、2倍になった価格にまた客がつき始めるという傾向も見えてきたのである。経済成長の基調はなお続いていたし、一般市民層の所得も上昇してきて、600万~700万円が手のとどく価格になってきたのである。こうした需要の回復で、46年後半ごろから、また、第三次ブーム開幕といった声もきかれるようになった。そして、新たにでてきた需要iよく売れているマンションは、立地条件、建物の堅牢性、機能性にすぐれ、相対的に安く、分譲会社の信用によってかなりのローン枠が確保されており、さらには公庫融資も付いているもの、という傾向が強くなった。こうした条件を備えたマンションならば、当時の都市の住宅観からみて、なお多い潜在需要者を掘り起こすことができた、ということであろう。しかも、こうした需要層は、第二次ブームのそれが中堅層の企業の一般管理職以上が中心であったのに対して、企業の社員一般への広がりをみせてきた。本格的な第三次ブームは47年から始まり、48年秋の第一次石油ショツクの前後まで続いた。第1次~第3次の各ブームと、これらのブームに挟まれた間の特長を整理して表示した。これはマンション市場の景気の周期を示すものであった。近隣施設:東武ストア

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です