2013年築の三菱地所が手掛ける高級賃貸マンションの高級賃貸マンションのプレジリア新富町
新しい制度は、容積率(敷地面積に対する建物の延床面積の割合)によって規制する地区(容積地区)を指定する制度で、容積地区は容積率100%の第一種地区から容積率1000%の第10種地区まで、10種類に分類された。実は30年代に入ると、31メートルという高さ規制の理論的根拠の希薄さや、建築技術が著しく進歩発展したことなどから、高さ規制が都市の発展を阻害するものだという声が強まってきていたのである。その口火を切ったのが昭和32年、当時の十河信二国鉄総裁が東京駅を24階建てに大改造するというプランを打ち出したことだった。34年に国鉄の依頼により発足した「建物の適正設計震度研究委貝会」(武藤清東大教授当時)は、37年に次のような結論をまとめている。それによると、従来の剛構造の于法で鉄筋鉄、鉄筋コンクリート造りとすれば、14から15階が限度である、しかし新しい于法で新しい材料を使い、鉄骨構造による〈柔構造〉理論によるならば、技術的には二五階程度は十分可能であるしという結論をだしたのである。
この東京駅計画は実現に至らなかったが、その検討過程で柔構造理論の確立という成果を生み、建築物の高層化の道を切り開くことになった。柔構造理論というのは、簡単にいえば地震を柳に風と受け流し、地震力を吸収してそれを雲散霧消させてしまおうという考え方である。
建築技術はこのように地震工学や電子計算機の発達に支えられ、飛躍的発展を遂げていたし、高度成長を続ける経済社会の変化は、いつまでも低層建築オンリーの都市構造の存在を許さなくなりご27年には曰本建築学会は高さ制限の撤廃と、それに代わる容積地区制度の採用を建設省に申し入れた。これを受けて、38年の建築基準法改正となったのである。この改正は剛構造理論から柔構造理論へと転換する動向を反映したものだった。しかし、以前から都市を不燃化、土地の有効利用を図っていこうという考え方は、戦後早くから芽生えていたのである。主要都市をほとんど焼き尽くした戦災の惨状から、都市は不燃化すべきだという主張がまず日本建築学会などから現れた。25年4月の第7国会衆議院本会議でも「都市建築物の不燃化の促進に関する決議案」を全会一致で可決している。だが戦後、不燃建築活動が緒についたのは、悪性インフレがようやく終息し、経済が安定し始めた27~28年ごろからで、そういった機運を盛り上げたのが27年に制定された耐火建築促進法である。このころになると市街地での土地取得難が顕在化、都市の周辺部に新しい宅地を求めなければならなくなってきた。こうした事態を背景に、住宅対策審議会は29年1月、公庫の宅地造成事業と分譲住宅の建設事業に対する融資の道を開き、あわせて、既存宅地の高度利用を図るため、土地所有者に対する建設費の全額を融資する土地担保賃貸住宅貸付けと基礎主要構造部に対する建設資金融資などを行うよう政府に建議書を提出している。建設省では、早速その内容を具体化し、公庫住宅の建設を大きく阻害する宅地問題への処方籤として29年5月に住宅金融公庫法の一部を改正する法律」が施行され、基礎主要構造部貸付制度が創設された。この制度の狙いは、市街地の土地の高度利用と都市の不燃化を推進するため、住宅の基礎になる店舗・事務所などの基礎主要構造部に、住宅の敷地費のかわりに、その建設資金を貸し付けようというものだった。この制度はさらに改善、拡充が図られ、32年には「一般中高層貸付制度」に衣替えする。この制度について南条建設相は32年3月の衆議院建設委員会で、制度の提案理由を次のように述べている。「わが国における都市は、その大部分が低層の木造住宅で占められ、かつ年々郊外へ平面的な発展をしている。
このように、わが国の各都市における土地の利用状況は、欧米に比べてその利用度が低く、都市構成上にもきわめて不合理な形態となっている。さらに火災その他の災害の防止という観点からも、憂慮される状態にある。したがって、都市における建築物の高層化および不燃化を強力に促進する必要がある。このため、都市における住宅難の緩和に寄与し、あわせて土地の合理的利用、災害の防止に資する中層または高層の耐火性の建築物を建設するに必要な資金の融通措置を新たに講ずる必要がある。
こうした考え方が支配的になり、やがて建築基準法改正へと結実していったのである。こうした制度の充実を背景に、住宅の中高層化は次第に増加していった。建設された住宅総数のうち、中高層住宅の占める割合は延べ面積べ15%だった。ところが改正後は、中高層住宅は一般の住宅を上回る高いぺースで増えつづけ、昭和45年には1万3700棟、延べ面積で1650万平方メートルに達した。近隣施設:中央区立明石小学校