ドゥーエ銀座イースト2

ドゥーエ銀座イースト2 外観ドゥーエ銀座イースト2部屋写真

ドゥーエ銀座イースト2は、2005年築33戸の高級賃貸マンション。交通は、東京メトロ有楽町線『新富町駅』徒歩5分、東京メトロ日比谷線 『八丁堀駅』 徒歩8分、東京メトロ日比谷線『築地駅』徒歩8分、JR京葉線『八丁堀駅』徒歩5分、都営浅草線 『宝町駅』徒歩9分と複数路線使用可能です。目黒区の柿の木坂は昔からの高級住宅地である。メインストリートが交差する一隅に巨大な七階建てのマンションが立っているのがちょっと奇異な感じを与えるが、その他は個性的な美しい家々が続く静かな住宅地である。このマンションが建ったのは30年代で、当時としてもデラックスなものであった。入居者の希望する間取りで分譲する、という独特の売り方で注目を集めたマンションだった。実はこのマンションの裏側に平屋の小じんまりとした家があった。その家は鉄筋コンクリート造の平屋であり、建築雑誌にでも載っていそうな見事な住宅であったが、マンションの影に入ってしまったのだ。敷地仝体が夕暮れのような薄暗い冷気のなかにスッポリ隠れ、日影になろうとどうなろうと、諦めるほかはなかったのである。やがて時が流れ、法令が変わり、時代も変わった。建築基準法は改正され、それまでの高さの制限は住居地域が20m以下、その他の地域が31m以下であったものが、第一種住居専用地域は10m以下となり、容積制に改められた。また東京都は住居専用地域の大幅な拡大を図った。だから今では、自分の家の南側に7階建てマンションが建つ心配はなくなったが、このことは将来にまた別の問題を残した。つまり、このマンションでいえば10m、つまり3階までは適法だが4階以上の住戸を買った人達は「既存不適格」となり、将来このマンションを建て替える時にこの人達の行く場所がなくなってしまった。この人達は沈んでいて哀れであった。当時は住民運動もなく、日影規制もなく、規則通りに建てられ、これから一体どうしたらいいのかと途方に暮れていた。

当時シカゴで近代的な超高層建築が出現していた。これまでのレンガや石、木材を主体とした建築材料に、さらに鉄やコンクリートといった工業的材料が加わり、建築の高層化を促進したのだった。ところがわが国で建築物の高層化が始まったのはわずか30年前である。昭和38年7月に建築基準法の改正が図られてからである。それまでは市街地建築物法によって高層ビルの建築は、最高の高さを住居地区で20メートルに、その他の地域では31メートルに抑えるという規制措置が長い間とられてきたのである。この規制には大正1年の関東大震災が大きく影響していた。この大地震はわが国の近代都市発展の創成期に起こったが、長い間、地震国日本では、超高層ビルの建設は不可能だと考えられてきたところに、当時の近代的ビルの多くが倒壊、大きな被害を出し、従来の″学説”を証明した格好になったからである。この大地震で堂々耐え抜いたビルは丸ビルや昔の日本興業銀行ビル、東京海上ビルなど、構造体に鉄筋コンクリートだけでなく鉄骨が使われ、耐震壁が設けられた、日本独自の耐震設計法に基づいた建物だったのだ。その結果、日本における耐震思想としては、耐震壁を利用した剛構造理論が確立されるようになったのである。剛構造理論を簡単にいえば、地震力を受け止めてこれに抵抗する考え方であり、そのためには、鉄筋、鉄骨を10分に組み込み、それをコンクリートで固め、さらに耐震壁を入れて補強するというものである。この理論に従えば、建物が高くなるほど下の方の柱や梁は太くしなければならない。この規制には大正ご一年の関東大震災が大きく影響していた。この大地震はわが国の近代都市発展の創成期に起こったが、長い間、地震国日本では、超高層ビルの建設は不可能だと考えられてきたところに、当時の近代的ビルの多くが倒壊、大きな被害を出し、従来の″学説”を証明した格好になったからである。
近隣施設:中央区役所

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です