レグノ・ヴェール明石町は、2005年7月築のデザイナー賃貸マンション。明石小学校の学区域です。不況に伴う地方公共団体の財源難が、公営住宅の供給増を難しくしていたのである。このほか大都市周辺へ都市圏域が広がるにつれ、公営住宅建設のように個々の自治体の範囲だけの対策では根本的な解決は不可能になってきている、という認識があったのだ。その辺の事情について元住宅公団副総裁で当時は住宅局住宅建設課の筆頭補佐だった尚明は次のように語っている。公営住宅建設が遅々として進まず、特に東京都が毎年度末になると、決まって〈計画達成が不可能になった〉と、何千戸分もの国庫補助金を返上してきていた。
この調子では住宅建設を自治体にまかせていていいのか、と色々考えているうちに、都道府県の出資する住宅公社(または住宅協会)があるのだから、これにならって国の出資する公社をつくったらどうかという案が固まってきた。それなら自治体のナワ張りを気にせず、干葉県に住んでいて東京に勤めに通うといった〈首都圖人〉のための住宅建設も可能になると考えたにという。もう1つの背景に、当時の省内の若い建築家の間には、雑誌などでみかける欧米の理想的な団地をわが国でも、と意気込む者や、また都市の不燃化という戦災復興院時代からの大目標をなんとか達成しようと、やっきになっている者が多かったのだ。ところが、その現実といえば、公営住宅は木造が主流で、自治体の間には、単価の高い鉄筋アパー卜を敬遠する傾向が強かったのである。自治体にいわせると「国の補助金算定の基準になる標準建設費が安く抑えられていて、一種公営住宅が五割補助といっても、実際には三、四割にしかならず、その分、持ち出しになってしまうしといったお家の事情があったのだ。こんな住宅建設をめぐる事情から、それならいっそ、公社方式でやらせたほうがうまくいくのではないかという考え方が台頭してきたのである。
さらに建設省ではもう一つ、現実的な厄介な問題を抱えており、その解決の一助になると考えられた。そのころも現在と同様、いやそれ以上に、財源難を克服するための行政改革が強く求められていたのである。建設省では戦後長らく続けてきた駐留軍関係の施設建設の仕事が少なくなり、30年度中に営繕局の技術者を、大量に整理していかなければならないという深刻な話が浮かび上がっていた。こうした事態に対処しようと、営繕局では官庁施設の工事受託、維持管理を専門に手掛ける公社のような組織をつくり、そこに技術者を回す案を検討していたが、法的に難しい点もあり、具休化出来なくて悩んでいたのである。そこに公社が設立されれば、住宅に強い技術者を大量に送ることも可能になるといった切実な問題があったのだ。湖都市整備公社案一方、同省の計画局内ではもう一つ別の公社構想が芽生えていた。今日でいう都市再開発を積極的に進めていこうという「都市整備公社」構想である。現在、住宅公団は宅地開発公団と統合、都市再開発にも力を入れる「住宅・都市整備公団」に変わったが、4分の1世紀前、住宅公団が生まれようとしているときも、似たような趣旨と名前の組織が考えられていたのである。この公社構想は、戦後の都市づくりの柱だった戦災復興事業が一段落したのに伴って考えられたものだった。
近隣施設:中央区役所