クリオ築地川公園

クリオ築地川公園 外観
クリオ築地川公園

近隣施設:中央区役所
昭和14年(1939)ごろ,三井合名の内部では|司社の組織を根木的に改革する方途が真剣に検討され始めていた。これよりさき,長びく深刻な不況,とくに厳Lい農村の窮乏を背景に右翼団体や農村育年の一部,次いで軍の青年将校を中心に,政党政洽と財閥を打倒し,軍事力による膨張政策を強行しようとする力が,7年2月の大蔵大臣井上準之助,同年の三井合名埋事長団琢磨を于始めに,同年5月15日の犬養首相,11年26日の重臣数人の暗殺などテロリズムを続け,ついに12年には日中戦争の勃発へと進んだ。準戦時体他11から戦時体制へ急速に移行することを余儀なくされたのである。この移行にあたって激増する膨人な資金需要に対して,当時の口本経済に大きな位置を占めていた三井,二菱および院友財閥は,合名または合資会社という従来の閉鎖的な木社組織をもってしては対応できなかったのである。この課題に対して,旧商法による合資会社であった三菱木社は商法の加定による株式会社に組織を変更住友は合資会M二を解散して株式組織による本社を設立する形で,それぞれ12年中に改組を終えていた。平和産業を中心に発展してきた三井にとっては,傘下産業の戦時体制への転換はいっそう重い課題であったうえに,11家の同族のうちの6家に家督椚続が起こっていて,高額の納税。資金を調達する必要に迫られていた。7井家の税金引当金は合名会社の積立金になっており,そのすべてが株式の形で保布されていたから,資金調達は,株式売却によらざるを俘なかった。しかし当時の税制に。よると,売却利益は合名会社の法人税と三井家の所得税によって85%以上を徴収されるため,相続税の分納が続く限り,三井合名は莫人な持株を売却し続けねばならない事態であった。この難局にあたり三井合名理事長の任についた向井忠晴は,自ら委員長となり,三井銀行,三井物産,三井鉱山にも参加を求めて改組のための対策委員会を急辿組織して,連日の|窃議を続け,資金統制の厳しいなかではあったが,大薮省迫水久常担当課長の国家観点からの判腎を得て,二井台名を三井物産に合併する,すなわち子会社に親会社を合併する形式による本社の株式組織化案を決定したのであった。かくて,三井今名を三井物産に合併する2社開の合併契約が15年3月20日に締結され,同月27日に認可申請書が大蔵省に提出された。モレて,当局の了解を得て三井家に譲渡された三井銀行,三井信託,およびこ井生命の金融3社の株式を除く三井合名の資産は,三井家による現物出資の形で,資本金3億44万円(うち2億4736万円余払込み済み)の三井物産に引き継がれることとなった。

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