ヴィーダ勝どき

ヴィーダ勝どきは、都営大江戸線 『勝どき駅』徒歩3分、東京メトロ有楽町線『月島駅』徒歩15分、都営大江戸線『月島駅』徒歩15分の分譲マンション。不況を克服してマンションは第四次ブームヘ突入します。52年から首都圏でマンション急増し、昭和51年後半から、景気は次第に回復に向かう。50年の、四次にわたる公定歩合引き下げの効果もあって、とくに輸出が活発化し、52年秋には、外貨準備高が史上最高の約195億ドルに達したほどである。社会的な出来事から見ると、51年春から夏へのロッキード事件、その第一回公判が52年1月に行われ、街には石川さゆりの「津軽海峡冬景色」や沢田研二の「勝手にしやがれ」などが流れた。歌蹊曲といえば、カラオケがとみに盛んになったのもこのころのことである。秋には巨人軍・王選手が七五六本のホームラン世界最高を記録した。さらにこの年には、日本人の平均寿命が男72歳と発表され世界一の長寿国となった。いよいよ高齢化社会が本格的に訪れようとする、そんな年でもあった。53年に入ると、春ごろから原宿の街には竹の子族が現れ、六本木などの街にはディスコブームも起こる。こうしたなかで、五月には機動隊一万人の厳戒のもとに成田空港(新束京国際空港)が開港した。また、第一次オイルショツク後、田中角栄、三木武夫とつづいた政権は、この年の暮れ、大平正芳に引き継がれ、大平内閣が成立している。54年の年頭早々に起こったのが第二次オイルショツクである。国際石油資本(メジャー)がわが国にたいして、対日原油供給の削減を通告、48年暮れにつづいて、国内にオイルショツクの傾向を強めた。これに対応して政府では、ビル暖房の制限を呼びかけるなどの石油消費削減対策を発表、
対石油不足政策を打ち出しているが、一方、省エネルギーやソーラーシステムのビル・住宅の必要性が強調されるようになったのも、このころのことである。なお、この年の春には、委員会は対日戦略基本文書で、「日本人はウサギ小屋に住む働き中毒」と発表して、日本人、とくに住宅関連の人たちの注目を呼んだ。住宅もまた、こうした経済・社会情勢を背景に、第一次オイルショツク後の不況からようやく脱却、新設住宅着工戸数も次第に増加基調をたどる。すでに述べたように第一次オイルショツク直後の49年度、新設住宅着工戸数は216万1000戸と、対前年度比28.6%の減少となったが、50年度にはやや回復して142万8000戸(対前年度比こ丁二%増)となっている。さらに51年度には153万戸(同7.2%増)、52年度には153万2000戸を達成、その後54年度までは150万戸前後と、一応、安定的に推移している。

ただ、第一次オイルショツク前の高度成長の時代と異なり、150万戸前後を一進一退するというように、いわば安定成長のペースで推移したのがこの時期の特色であろう。ところで、マンションの供給戸数は、首都圏におけるマンション供給戸数は、すでに述べたように、49年の3万2000戸台から、50年・51年ともに2万5000台へと激減したが、52年にはこれが、4万779戸へと急増している。実に85.2%の伸びであり、51年にくらべると2倍近い増加ぶりだったわけである。各地域(東京23区、東京都下、神奈川、埼玉、千葉)とも増加しているが、とくに増加のいちじるしいのは東京23区と千葉県であった。東京23区では51年1万4893戸から52年2万4626戸と65.4%の増加、千葉県では51年319戸から52年8090戸へと158.5%の増加であった。とくに東京23区では、第一次オイルショツク直後もそれほどの減少ではなかったが、51.52年と引きつづき急増している。というのもオイルショツク前後、マンショッの立地が拡散、郊外化するなかで、やはり職住近接の旗手として、都心マンションが依然として根強い需要を維持しつづけたせいだろう。ただ都心型マンションとはいっても、その立地は、完全都心型というよりは、山の手や下町という。いわば準都心型のものが多かったのが、この東京23区マンション急増の特色でもあった。また、この時期に千葉県でマンションが急増したのは、たとえば千葉県内でも浦安や行徳など比較的都心部に近いところで大量のマンションが供給されたためである。この地域は、都心部の日本橋あたりからわずか14、15キロメートルの距離にあり、地下鉄東西線を利用すれば、日本橋まで15~20分程度という立地条件のよさが、マンションの大量供給を促す要因でった。中央区の勝どきも銀座までバスなどの交通が発展しており、人気のあるエリアだ。ヴィーダ勝どきも立地ともに人気の高級賃貸マンションといえる。近隣施設:東武ストア

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