CONOE銀座イースト

CONOE銀座イーストは東京メトロ有楽町線「新富町駅」徒歩2分の中央区新富にある2013年12月築の地上10階建て、総戸数27戸、RC(鉄筋コンクリート)造の高級分譲賃貸マンション。占領軍によるビル等の接収であった。昭和20年10月から22年5月にかけて,三井本館の4,5階,札幌分館,綱町分館,日比谷の社有地(有楽町一丁目12番地1),神戸市の社有地也および同区浜辺通五丁目2番地1)があいついで接収され,三信ビルも20年9月に接収の対象となった。このうち,三井本館の4,5階は総司令部の外交局が使用し,綱町分館は米軍の将校集会所,口比谷の上地は占領軍のモータープールとなった。また,当社が26年に目東農林(現三井農林)から譲り受けた日比谷の喫茶店日東コーナーハウス(13年開店)の鉄筋コンクリート2階建て建物乱当時総可令部の民間俯服教育局(cIE)により図書館として接収された。ビルの接収は22年までに束京都下だけで66件,約11万坪にのぼったといわれるが,接収ビルの貧貸料はきわめて低く,通常償却費を確保するのがやっとという状態であった。当社の場合乱接収面積が606坪に及んだ三井本館4,5階の賃貸料は,23年8月の時点で坪当り30円(ただし22年の追加接収部分の賃貸料)にとどまった。時点の接収部分を除く室町一構全休の賃貸料,経費臨時負担金,建物復旧援助金の合計は坪当り156円であったから,接収部分の賃貸料はその5分の1にも満たなかった。企業維持の努力このように終戦後しばらくの時期の当社は,地代および家賃が統制下にあったのと接収も受けていたために,不動産賃貸業以外の事業に力を入れざるを得なかった。当社はまず昭和20年(1945)12月に,1戸15坪,3万1700円の規格住宅100棟の建築を計画した。しかし,この住宅は請負のため当時の猛烈なインフレ下では,顧客との事前の契約価格を実際の工事費が上回る結果となり,結局は田園調布や小石川などの10戸たらずで建築を打ち切った。21年2月には預金封鎖および新円切換えが行なわれ,賃貸料収入がいったん凍結される形になったために当社は従業員への給料の支払いにも窮するといった苫境に陥った。そのため新円かせぎの一助として,日銭のはいるさまざまな事業に手を出さざるを得なかった。保険代理業務の開始(21年4月)に二号館地階喫茶室の|州業(21年5月),有楽町での飲食店の共同経営(21年5月),室町一構内での花沓・薬品・雑貨販売店メイフラワーの開設(21年7月),㈲東洋産業の設立(21年7月),千葉県八日市場市付近の澱粉工場の買収経営(21年10月),三陽商会と提携しての本館地下での菓子製造(22年4月),蓼科山寮敷地での緬羊飼育(22年7月),荒生産業と提携しての飴
の製造(22年末),郵便切手・収入印紙販売の開始(23年3月),煙草販売の開始(23年5月),のちの別館建設敷地での喫茶店ポロニアの開設(23年6月)などがそれである。当時飴の躾造,販売を行なっていた山田実(のち三井不動産建設常務)の話によれば,水飴を原料に川いて本館の「地下工場」でパターボールなどの飴をつくり,これをオート三輸に積んで御徒町や錦糸町の闇市に売り歩いたが,色が悪くてほとんど売れなかったとい‰また田島清(のち第一整備社長)の回想によれば,うまくいったのは市業課が直営した喫茶店で,三井化学工業からサッカリンを仕入れ,日本橋や銀座の喫茶店を回って勉強し近くの料理店の娘さんらの応援を得て開店したところ,いつも満席という繁盛ぶりであった。近隣施設:ファミリーマート

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