アルティザ東銀座は東京メトロ有楽町線「新富町駅」徒歩1分の中央区築地にある2015年8月築の地上13階建て、総戸数24戸、RC(鉄筋コンクリート)造の高級分譲賃貸マンション。重要な経営方針を決定する際には事前に本社の承認を得るなど,人事面や業務面で三井木社の組織的な統轄を受けることになった。戦災と西木組の買収、戦災と当社第2次世界大戦での連合国側の優勢が決定的となるなかで,昭和19年(1944)から20年にかけて東京,大阪を初め全国の都市は米軍のB29による猛烈な空襲を受けた。当社の場合,防護団や防衛課の活躍もあって,室町一構の三井ビルや大阪の巾之島ビル,高麗橋ビルは焼失をまぬがれたが,東京の今井町分館,筒町集会所,清泉学寮,大弓場等の建物は戦災によって焼失した。3月の日木橋一帯の空襲を体験した従業員の回顧談。「本館にもパラパラと焼夷弾が落ちてきた。本館の屋上には防災上,一面に近く川砂が積まれていたが,焼夷弾の数発がその砂に突きささった。それをわれわれは手でつまみあげて水槽にたたき込んだものだ」(当時三井特設防護団警報班長交野武一,のち第一整備社長)。「室町一構周辺の人家がすっかり焼けたので,本館の地下室を避難所に開放し,多数の人たちを阿日か収容しました。われわれ女子社員の手でお世話をし,当時会社の非常食としてストックしてあったカンパソや蜂蜜,タオルや石けん,ちり紙まで配布して大変喜ばれました」こうした状況のもとで当社は,土木建築業への進出を構想するに至った。戦時下の困家要請にこたえて軍需施設を建設し,あるいは所有不動産を保全するだけでなく,さらに予想される戦後の戦災復旧工事に携わるために払 自ら設計施工能力をもつことが必要であると考えられたのである。かくて当社は,19年9月に「土木事業計画書」を作成し,19年から20年にかけて三井土建総合研究所の設立,㈱西本組の買収という形でこの梅想を具体化していった。三井土建総合研究所の設立した、まず土木建築の設計監督部門へ進出するため,昭和20年・1月三井土建総合研究所が設立された。同研究所は当社の一部門として設立されたが,設置目論見書によれば,当社の意図は「研究所の設置に依り三井関係各社の建設工事に対する計画設計,監督を総合的に引受くるは勿論,進んで陸海軍に臨力して戦時下の要請に応えんとするものにして,一方学術的研究を目的とする研究会議を開催し,斯界の権威者をその会員として土痙報国に邁進せんとする」点にあった。研究所の開設にあたっての殼大の難問は優秀な技術老を確保することであったが,これは金森誠之,渡辺仁とレう当時の土木建築界の第一人老の参加を得て解決された。初代の研究所長は当時当社社長であった佐々木四郎(社長就任は19年12月)が兼任し,金森は土木部長,渡辺は建築部長にそれぞれ就任した。研究所は,室町一構内の三井三号館の中に設置されていたが,仕事らしい仕事もしないうちに戦後まもなく閉鎖された。近隣施設:ローソン