銀座イーストシティタワー

銀座イーストシティタワー 外観
銀座イーストシティタワー

近隣施設:中央区役所

若年のころから父の薫陶を受けつつ営業の実際に苦労を分けあい続けてきた兄弟たちにとっては,家はひとつという父の心は彼ら自身のものでもあったであろう。しかし世代の交代は早晩避けられず、とくに多人数な一族のあいだに親疎の差が生ずることは当然予測される。さらら彼ら白身の次男の処理も重要な問題である。兄弟が健在のあいだに,意思を亘久性のある制度に固めておく必要が強く感じられたのは当然である。この制度化は,企両力に富む次男高富を中心にして熱心に進められ,訓月にまでわたる膨大な家法の革案がつくられつつあったが,完成をみることなく病没した。そこで高富の禄y想を継いで,その死の翌年に,家法制定に先立って石なわれたのが京都における元方の設置であった。宝水7年のことである。三井家の貿産をすべてここに集巾し,各営業店の資本を定めて人元方が出資するとともに,所キの連転資金も融通する。営業額と商況に応じて大元方から指定される額の納付金「功納銀」を人元また融通金の利于を支払う。大元方から支給される同族の生活費は,家格によって定額が決められていて,大元方の利益金配当ではなかった。大元方の最大の収人は,3年毎に1度行なれる営業店からの別途納付金であった。これは各営業店が毎期の決算で所定の納付金を大元方へ納めたあとに残る利益金を店に保留しておき,3年おきに決算して大元方へ納入するものである。その際,保留金額の10分の1は納入を免除されて,当該店の店員に定めれる。いわば3年に1度支給されるポーナスであって,その額は当然それそれの店の営業成績に応ずるわけである,この3年ごとに行なわれる営業店からの納付金も,三井家の一族に配当されることなはなかった。『宗竺遺書』の名で確定されたのは,享保7年(1722)のことであり,各営業店ごとに厳格な業務規則の制定交付があいっいで行なわれ,一時急増した営業店舗の閉鎖も断行された。「家方式目。の制定はその一環をなしたもので,借地・借家人の厳選,地代・店賃の月末収立ての励行,借地・砦家人への立替金の禁止,成績に応じた賞罰の実旭」空家に対する対策提案の奨励等々,不動産からの収益を確保するための詳細に及ぶ項目が列記されている。そして最終の条項に,小動産賃貸に関連してしかるべき貸け金の取引先るで見出すことに常時心掛けよという項目がある。不況下で極度に金融の緩慢な情勢をうかがわせるに十分である。

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