銀座イーストシティタワー

銀座イーストシティタワー 外観
銀座イーストシティタワー

近隣施設:中央区役所

ひとたび経営の内容に立ち入ってみると,大元方決算表にあらわれる巨額な蓄積とは裏はらに,不良資産の増大,強制的に割り当てられた高額な幕府・大名の御用金など貸付金の固定などによって,流動資金は極端に枯渇し,営業店への運用資金の融通をとおして経営を統御する大元方の談能は,ほとんどまったく失われていた。資金を人手するために,所有不勤産の売却を意思したことさえあったが,不安な囮青に買手を見出すことができず,実現をみずに終わった事実もある。三井の経営がこのような苦況に陥った原因を個々にあげることは祗要でない。要は,徳川政権下の政治経済の勁向に規制されたものであったからである。大塩平八郎の叛乱による大阪越後屋の打壊しは,その端的な一例であり,黒船渡来以後の田内不安がいっそう業態を悪化させた。やがて,勅許をめぐって政局は緊迫した。この問にあって,京都の大元方は惣鎖家の高柵・高朗父子が中心となって勤工派との接触を密にしていた。真疑のほどはたしかでないが,西郷隆盛が薩摩藩の重職小松帯刀を案内して惣領家を訪れ,藩主島津家との縁組を申し入れたという伝説があるほどである。一方江戸では,鬼才の番頭三野村利左衛門が勘定奉行の財政策に深く介入して,幕府公金の導入による淋しい分野の開拓に努力していた。東西呼応して政局の推移を注意深く見守っていたのである。三井が勤王派支持の旗幟を鮮明にしたのは,慶応4年(1868)1月,鳥羽伏見合戦の直前であった。夜陰にまきIれて三井邸から薩摩藩陣屋へ軍資金を運んだのは,のちの陸軍元帥大山巌であったと伝えられる。やがて新政府が,何の経済基礎もなく樹立された。三井は小野・島田両家とともに,新政府の財政を担当,会計基立金(田債300万両)の徴凪太政官札(不換紙幣)の発行通用,征討軍費の調回達などに奔走した。新政府にとって最大の課題であったのは,地租これには難題が伴っていた。政府高官は已井の首脳を招致して,この際呉服業を廃11二して銀行業に専念せよと強硬な勧奨を加え,即答を求めたのである。たしかに,当時の呉。服業は困難の極にあったし政府の圖伺銀行となることは大ぎな希望であった。
しかしいかに窮状にあるとはい勉呉服店越後凧は三井家にとって創業以来の木業であって,これを切り捨てることはできない。苫悩の宋に見出した対策は,三井家のうちの3家を三越家と改姓し,呉服業をその経営に移寸ことであった。それは当時の三井内部で「外は離れ内はひとつ」と呼んだ苦肉の策であった(のち明治26年にヨ越呉服店は合名会社三井呉服店に改組され,三越家も三井姓に復した)。かくて,新貨幣の兌換為替業務の委託と銀行設立の準隨を政府から命じられた三井は,勇躍して,新生三井の象徴となるべき恬新な洋凪高朋建築の新築を決した,場所は,かつて明洽2年,(1869)に政府が商社と為替会社(酉欧銀行の最初の模倣)を設立し,その後維新当時の功を賞して三井・小野・島田3家に下賜された目木橋海運僑のかたわらに定めた。その設計工事は清水喜助に委任さ牡た。清水家の当時の主人喜助は2代目で,初の洋式ホテルである築地ホテル館を初め,浜居留地内に商館,外国人応接所などを手がげたのであったし,三井の守護神であった向島二囲稲荷の社殿建築をとおして,三井と古くからの付き合いがあった。

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