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同地の幕府御金蔵に納めればすむからである。そして,大阪の御金蔵から頂かった公金は,公金為替の形式をとる失質上の貸付金に191すことができたのである。その蔵元,掛屋として諸人名との取引をもたなかった三井は,もっぱら同地の問屋商人への融資にふり向けた。このようにして,三井は最大の商都大阪における有力な商業金融業者としての地位を急速に強化することになったのである。そしてこれは,従来呉服業のための補助機関にすぎなかった両替為袴業を,呉服業と並ぷ経営の双璧の位置に高めるものとし。以来三井は輿服と両替を両輪とする豪商として,大規視な経営を続けるに至ったのである。井原西鶴が『口本永代蔵』のなかで,日鼻だちこそ常人なみながら稀代の異才とまで評した三井家の家祖高利にも,死の近づいた晩年には,深刻な悩みがあった。それは築いた巨万の富の相続であった。元禄当時の民間慣行には,長男に厚い不平等な分割が多かった。高利の場合とくに問題なのは男子の数の多かったことで,実子8人のほかに2人の養子がいた。もっとも,晩年には営業店舗の数が増え,不勤瀕の所有も多かったから,分割相続が不可能であったわけではない。しかし分割が経営にとってきわめて不利なことは明らかであった。たとえば,京都の呉服店は江戸,人阪の販売店のための仕入れ業務を中心としていたし,両替店は呉服店の利益金を有利に運用することを主要な業務のひとつとしていた。複雑に入り組んだ営業店間の勘定を整理したとして私個々の営業店が独立して経営を続けることの不利は愚直であった。だからといって,長男高平に単独相続させるわけにはいかなかった。世上一般の慣習に反するだけではない。高利の成功は,高平ら息子たちの分担協力によって実現したのであるから,次男以下の労に厚く裸いる意志が高利に強くあったからである。要するに,家産・家業の維持と分割相続とのあいだの矛盾に,晩年の高利は苦慮したのである。高利の遺した遣昌‘は簡単なものである。他家に嫁した娘の分を含めて妻に銀100頁1日(約1700両)を遺贈し,それを別にした総遺産を70という筒数であらわし,長男以下にそれぞれ配分した箇数を列記したうえで,このとおり各自に「元手奎」を「割付けおく」と結んだだけのものである。明らかに追産分割の割台を示しているが,具体的な分割の仕方にはまったくふれていない。この遺害は三男が病床の父に代わって清書した低 これと同じ目付,同一の1蹟で,配分を受けた全員が連署して長男高平に宛てた証文が1通つくられている。その主旨は,われわれ兄弟は元手金の分配に与ったけれども,自分たち一生のあいだはこれまでどおり、身底一致のままにして分けることをしない,父の死後は長兄を親と思ってその指示に従うと述べているのである。しかもこの文の終わりに,ここに述べた旨を守り,とくに高平を敬ってその命に従えという士旨の奥書を4利が書き添えている。要するに,これはー代を限りとした暫定措置であることを確認しあったものであるから,恒久的な制度の確立は,彼ら兄弟の手に委ねられたわけである。たしかに,若年のころから父の薫陶を受けつつ営業の実際に苦労を分けあい続けてきた兄弟たちにとっては,家はひとつという父の心は彼ら自身のものでもあったであろう。しかし世代の交代は早晩避けられる。とくに多人数な一族のあいだに差が生ずることは当然予測される。さらに彼ら白身の次男の処理も重要な問題である。兄弟が健在のあいだに,亘久性のある制度に固めておく必要が強く感じられたのは当然である。この制度化は,企画力に富む次男高富を中心にして熱心に進められ,訓月にまでわたる膨大な家法の革案がつくられつつあったが,完成をみることなく病没した。