パークアクシス銀座イーストは東京メトロ有楽町線「新富町駅」徒歩1分の中央区新富にある2005年6月築の地上14階建て、総戸数52戸、SRC(鉄筋鉄骨コンクリート)造のハイグレートマンション。三井不勁産株式会社は,太平洋戦争の勃発に先立つわずか5ヵ月前の,昭和16年(1941)7月15日の創立にかかる。本書は、この創立以来40年間の事歴を記録することを目的とするものであるが、創立に先立つ長い前史とも呼ぶべき古い由緒をもつところに,当社のひとつの特色があるので、まずその概略を述べるところから本書の叙述を始めることとする。前身を探れば,18世紀の初頭に、三井家がその共有する不動産を管理する朧関として設置した家方」にまで遡ることができる。ここで三井家というのは、三井高利(元禄7年(1694)没)を共同の「家祖」として祀る同族集団のことである。この高利が生まれたのは、現在も三井家発祥の記念地として保存されている伊勢松阪本町の一角であるが、同家がここに居を定めたのは高利の父高俊の代のことであった。その祖先はもともと近江国(滋賀県)の武士で、主君であった近江源氏の婉流六角佐々木家が織田信長に亡ぼされたのに伴って郷貫の地を離れ,伊勢に移ったと伝えられている。三井家では後年まで高俊の父(高利の祖父)越後守高安を「遠祖」と名づけて祀る慣例があった。この高安をとくに遠祖とした理由はつまびらかでないが、恐らく刀を捨てて身分を町人に転じた最初の人であったのであろう。高安は山田の町(現伊勢市)で没している。そして,その長男高俊が城下町松阪に移住して、ここで質屋を営むかたわら酒、味噌の商いを始めたのである。武士かたぎから抜けきれなかった高俊に代わって、商売の一切を切り盛りしたのは、同国丹生であった。妻の殊法(俗名未詳)で皆あった。商家としての三井家の事実上の創業者は,商才に富む女丈夫だったこの女性であったといってよい。町の人びとが彼女の店を「越後どのの酒屋」と呼びならわしたところからみると、夫の高俊が父の呼称を継いで越後を名乗っていたのかも知れない。雄飛したとき「越後屋」の屋号を称したのは松阪時代の呼称にちなんだものであった。殊法夫人は,息子たちが15歳になると、わずかな元手を持たせて江戸へ送りだした。有力な親戚が江戸で成功しているのを見聞していたからでもあった。そして、息子も母の期待にそう能力の持主だったのである。まず長男の三郎左衛門俊次が、小間物商、呉服商として大成功をとげ当時の大資本家であった朱印船貿易業者と肩を並べるほどになっていた。弟たちも兄を頼って次々に江戸へおもむき、兄を助けながら商売を実習した。末弟の高利も例外ではなかった。母の殊法にとっては手許に残った最後の子であったが、惜し気なく手放した。高利は兄から呉服店の経営を委ねられながら、独立する準備を進めていた。しかし、母を助けるために松阪に戻っていた仲兄が没したために志半ばで帰郷を余儀なくされた高利は帰省後まもなく松阪の有力者であり江戸で両替商(銀行の前身)として成功していた中川家から妻を迎え、江戸勤務中に蓄えた資金で、母の家の近くに一戸をかまえて独立し、領主の紀州徳川家や津の藤堂家などをおもな取引先に選んで大口の金融業を始め、蓄財につとめた。その間、高利もあいついで生まれた息子たちを次々と江戸に送って長兄の店で業務を修得させ、江戸における呉服店開業の素志を実現する朧会をまち続けていた。しかし高利の異常な能力を知る長兄は,弟が同業者として登場することを望まなかったので、実現の目は容易に到来せず、長兄の死の直後に急濾開業の運びとなった。高利は、母や長兄から財産の分与を受けて分家したのではなかった。当時の用語でいえばいわゆる仕出し分家であって、自力で独自の新しい家を創立したのである。近隣施設:ローソン