グレーシア勝どき


グレーシア勝どきは勝どき駅より徒歩2分、駅至近の恵まれた立地の高級分譲マンション。住宅は内需拡大の経済を支える大きな柱としてざまな面で社会状況の変化が起こっていきました。いよいよ昭和60年代に入る。このころになると代表的な状況としては、第一に高齢化社会の本格的な到来であり、第二には新術の進歩・導入が50年代にくらべていっそう活発に行われるようになったこと。たとえば新技術としては、これまでのエレクトロニクス技術、バイオ技術などの進展に加えて、いわゆる超電導技術がようやく具体化の段階を迎えるようになる。こうしたことを背景に、産業や経済、あるいは住宅などの面で21世紀を目ざして大きな掛け 声として世に広まってきた。21世紀は、60年を起点とすればあと15年の目前に迫ってきている。この15年間の経済・社会の進展はいちじるしいことが予想されるが、その意味でも、21世紀を目ざして一種の社会スローガンとして掲げられたのも当然であろう。

住宅の面でも、21世紀を目ざそうという傾向が強く現れるのも、これまた当然のことである。住宅では、質の向上が叫ばれるようになってからすでに久しいが、60年代ともなると、質向上への志向はいっそう深化していく。また、経済的現象から見ると60年ごろから、いわゆる内需拡大の必要性はいっそう強まり、政府では60年4月に経済摩擦等の対策の包括的な対外政策を決定している。このような内需拡大のための対策・施策は、住宅にとっては強い追い風となって現れ、たとえば新設住宅戸数の増大、あるいはマンションの売れ行き好調の現象を生んだ。住宅はこの時期、内需拡大の、いわば旗手であり、住宅の生産・建設・供給が日本経済の成長を大きく支えたといっても過言ではあるまい。この時期を思い起こすために、昭和60年ごろの世相的・社会的出来事を列挙しておくと、忘れられないのは、日本航空ボーイング747ジヤンボ機が群馬県御巣鷹山中に墜落、520人が死亡した事故である。60年8月21日のことだ。プロ野球で阪神タイガースが優勝、熱狂的なタイガースーフイーバーを生んだのも、この年のことである。また、各家庭にファミコンが入り込み、いわゆるファミコンーブームを生んだし、小中学校などではいじめが横行して社会的な問題となった。さらにエイズの恐怖が世界中に広がったのもこの年のこと、そして2月には、いわゆる新風俗営業法が施行されている。高齢化社会の本格的進展を現す現象も、いろいろな面に生じている。たとえば50~60歳代はまだまだ慟き盛りというところから、この年代を熟年と呼ぶようになったのもこのころのことである。図大都市周辺で地価暴騰の波このころの住宅・不動産に目を転じてみよう。まず、60年以降の問題点としてあげなければならないのは、大都市周辺の地価の著しい上昇である。
とくに都心部における商業地の上昇は、昭和59年ごろから起こっている年1月1日現在の示地価格(東京圏・商業地)も上向きに転じた。年1年間の地価はさらに61年1月1日現在の公示地価(同上・同上)の上昇率は5%と、ついに60年1年間に都心部の地価は大きく高騰したことを表しているが、住宅地の地価の上昇はまだそれほどではない。59年には(東京圏・住宅地)は1.7%でしかなく、60年の1年間での値上がりと低い値上がり率で推移している。61年となると、62年1月現在の上昇率48.2%から見ても、まさに異常なほどの値上がりである。たとえば高度成長の最終時期の上昇率でさえも、48年に23.7%となっているから、61年の都心部の現在で28%、49年1月1日現在で価上昇がいかにいちじるしく異常なもので、さらにこうした地価高騰の波が周辺部から郊外部へと彭響を及ぼす。公示地価(東京圈・住宅地)によると60年1年間の値上がりは3%という低い上昇率であったものが、61年1年間の上昇率は、一挙に25%ときわめて高い値上がり現象を示す。都心部の地価上昇が玉つきのように、都心周辺部の土地を押し上げ、さらにその傾向が郊外部へと及んだのが、昭和61年から62年春ごろにかけての、大きな特色であった。こうした都心部商業地の地価高騰にはじまる大都市周辺の土地価格上昇の原因について論じるいとはないが、いずれにしても、東京への一極集中がビルとビル用地の不足を招き、都心部における土地需給のアンバランスが原因となったことは間違いない。さらにこれに対して、思惑需要が加わり地価上昇に拍車をかけたのは事実であった。また、このような都心部や周辺部の地価高騰が、その後62~63年におけるマンション分譲価格の高騰につながることになる。ところが61年1月には、東京都によって上地取引に関する条例が実施され、さらに翌年8月には国土利用計画法の改正で監視区域の制度が設けられた。いずれも高値の土地取引を防止しようという趣旨であり、土地買収と金融への規制も加わって、土地取引は不活発になった。同時に地価のほうも、62年夏から秋あたりをピークに、地価上昇は鎮静化、なかには下降に向かう土地も数多く見受けられるようになった。近隣施設:デリド

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