勝どきハイツ

勝どきハイツ 外観
勝どきハイツは人気ベイエリアに建つ高級賃貸マンション。駅から銀座まで6分程度で行ける距離にありながら、マンション周辺は緑豊かなリバーサイド。高級マンションの売れ行き奸調がつづくと、マンション需要者にとっては、希望するものがなかなか手に入らないという状況がおこってくる。とくにこのころ、住宅金融公庫融資付きのものが人気を呼んだが、この公庫融資付きのマンション分譲では、登録受け付けをした上、一戸について複数の登録があった場合には抽選によって分譲対象が決められるという分譲方法がとられる。したがって、人気を呼んだ場合には抽選によってなかなか手に入りにくく、はきわめて高い競争率が生じるため購入が難しいという、現象が起こってくるわけである。ちなみに62年に分譲され、もっとも競争率の高かった物件ベストーファイブをあげておくと、最高競争倍率(一戸にたいする申し込みの倍率がもっとも高かったもの)では、①光が丘パークタウン6137倍(住宅・都市整備公団)、②アベニュー音羽、3568倍(首都圏不燃公社)、③栄、三七倍(住宅・都市整備)スカイシティ南砂148.9倍(清水建設)となっている。いずれの競争率もまさに天文学的な倍率であり、いかにマッションにたいする需要が高かったかを示す数字である。とくにこれらのうち注目を呼んだのは、西戸山タワーホウムズである。これは、東京・新宿区の国有地の払い下げにともなって建設されたもので、その受け皿として、有カデベロッパー数十社から成る事業体(新宿西戸山開発㈱)が事業主体となった。その意味で民活マンションとされるが、払い下げ国有地に建てられるものだけに価格も低く押さえられ、敷地内に劇場を持つなど、都市住宅として話題性に富むものであった。申し込み受け付けの結果、前記のような高倍率を示したが、抽選に当選し、入居が決定したAさんは、「もちろん当たるつもりはなかったのですが、たまたま当選してしまって」と声をつまらせるほどであった。
図有力な投資対象にもこのころはまた、いわゆる財テクがブーム的状況を示していた時期でもある。個人にせよ企業にせよ、余資の活用意識が高まり、その運用先を求めて資金が投じられた。その代表が株式であったが、一方、余資の運用先として不動産が有力な対象ともなった。不動産の運用によるインカムゲイン(運用益)と地価の上昇によるキャピタルゲイン(資本利益=値上がり益)の双方が可能だったからであこうしたことを背景に60年から62年にかけては、投資用としてマンションが購人される傾向も強かった。つまり、賃貸用としてマンションを購人することによって運用益をあげ、同時に値上がりした時点でこれを売却することによって値上がり益を獲得するというものである。この時期における売れ行き好調を支えた条件の一つは、こうした投資需要であったといえるし、とくに中古マンションの流動化と値上がりは、投資需要がこれを支えていたと見てよいだろう。またこのころ、賃貸用マンションの一棟売り、あるいは投資用ワンルームマッショッ販売がきわめて活発であったが、これ も人々の投資運用の対象を求める傾向の強かったことを物語っている。ところで、60年代に入ってからのマンションの全体像を見てみよう。まず、マンションの供給戸数であるが、首都圏におけるマンショッの供給戸数は、58年をピーク(5万452戸)に、その後、59年(4万3839戸)、60年(3万9732戸)と次第に減少していく。つまり、61年には4万477戸していき61年、62年には徐々に戸数は増加している2年には4万1057戸という供給戸数であった。
60~62年のあいだの地域別に見た供給戸数を見てみよう。このあいだの供給戸数の合計はて1万166戸で、このうち東京23区が3万3041戸(37.2%)、東京都下が8371戸という分布である。
ここで見られる特色は、1つは東京23区の地盤沈下と神奈川県内のマッションの急増である。この傾向は従来からもつづいてきたものであるが、東京二三区における新規供給戸数はとくにいちじるしく、57~59年の3年間の供給戸数6万5252戸にくらべると、60~62年三年間のそれはちょうど半分に落ち込んでいる。3年間には27.2%と比率を下げている。また62年の供給戸数は9277戸と、ついに1万戸を割ったが、これは第一次オイルショツク以未、はじめての現象であった。近隣施設:勝どき区民館

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