銀座の喧騒を離れ、静かで落ち着いた住環境に聳える低層マンションジオ勝どき。列島改造論により、地価高騰していきました。46年から48年までの間の、わが国社会経済の動きは、戦後の各時代を通じて、もっともはげしい変転の一つともいうべきものであった。すなわち、46年8月のドルショツク(米ニクソン大統領の「ドル防衛声明」)、円の変動相場制への移行、さらに対応策としての金融緩和の推進に始まり、47年の「日本列島改造論」の流行、田中内閣の成立、地価暴騰、土地投資の大流行(一億総不動産屋時代、不動産業界も主対象の一つとする企業批判の高まり、そして48年10月の第一次石油ショツク、不況の深刻化、しかも、高度成長時代のさまざまなヒズミの後遺症の負担といった激変の時代をみせたのである。「日本列島改造論」は、全国のあらゆる地域で、開発できるところはすべて開発しようという方向を示し、しかも、その提唱者である田中内閣が成立したことによって、土地への投資、投機を全国的に展開させた。法人、個人を問わず、われもわれもと土地市場に出動し、狂乱地価ともいわれる地価上昇の状態をもたらした。地価については、地価公示法(昭和44年制定)によって、45年から例年4月、その年の1月1日現在の地価(全国の主要地点)が公示されている(当時は建設省が実施、50年からは49年発足の国土庁が実施)。この地価公示価格のこの時代の足どり(上昇率)を示したものであるが、表に見るとおり、47、48年は年間30%以上の上昇となっている。大都市圏や地方有力都市はもちろん、地方圖もところによっては、平均上昇率の2倍、3倍といった上昇をみせた。投資の仮需要で、土地が耘々と取引され、高値をつけていったのである。そして、こうした高値取引を支えたのは、ドルーショツク後の金融超緩和の過剰流動性の経済であった。
土地投資への融資が際限もなく提供されたのである。この時期の公示地価は一般に実勢より低いといわれており、実態はこの上昇率以上に上昇したとみられている。不勣産業界では、開発競争がまず土地取得競争から始められた。より多くの土地を取得保有した企業が優位に立てる、ということで、各社とも土地買いに奔走した。宅地分譲などは、先高感で次々に売れた。不動産企業だけでなく、他業種の一般企業も土地投資に熱心になった。マンション業界も、それぞれのマッション建設の増強を狙って用地の取得に大童であった。建てたマンションの売れ行き
も好調を続け、かつ、取得した用地の価格上昇によって、大幅の利益を得た時期もあった。だが、こうした投資利益への依存は、開発事業の連続ということから考えると、実態としては健全な利益維持とはつながらないものであった。すなわち、一事業でかなりな投資利益を得たとしても、次の用地取得において、かつては儲けの源泉ともみられた地価上昇が、今度は反対側で作用し、より多額の金額を支払わなければ用地が入手できないということになり、儲けを吸い取られるという現象が、回を重ねるごとに拡大していったのである。だが、とにかく表面的には、土地・住宅市場の好調は続いていた。住宅需要は活発で、新設住宅着工戸数は、47年度には185万6000戸と、史上最高を記録し、48年度も176万3000戸と二位の水準をみせた(この一位、二位は六三年現在も変わっていない。62年度の172万8000戸が史上第三位)。マンションもこの増大の流れの中で発展していった。地域的には大都市圏だけでなく、地方都市にも急速に広がり、購買層はサラリーマンー般を含む厚昧をもつようになった。マッションが、もっとも一般的な都市住宅の一形態として、社会に定着してきた。
なお、40年代後半には、5年間を計画期間とする、第二期住宅肆設五ヵ年計画が策定された。この計画の背景しては、一般的な住宅難の解消のほかに、戦後のベビーブーム世代の世帯形成期を迎え、その住宅需要に対応しなければならないという状況があり、かつ、計画の目標としては、前期計画の世帯一住宅から1人室の規模をもつ住宅の建設への拡充を示した。建設目標戸数は、当時の経済成長のすう勢を反映して、前期の670万戸を287万6000戸(42.9%)上回る957万6000戸とされた。その内訳は、公的住宅が383万8000戸(全休の40.1%)、民間自力が573万8000戸(同59.9%)であった。この計圓の建設実績は、公的住宅が310万8000戸、達成率80%、民間自力住宅が517万2000戸、同90%、合計828万戸、同86.5%、であった。当初の43年48年度まではいちおう好調だったのが、49年度以降の不況と建設不振で、計画目標を大きく下回る結果となったものである。近隣施設:勝どき区民館