ベルーガ八丁堀

ベルーガ八丁堀 外観
ベルーガ八丁堀

近隣施設:中央区役所

不動産業界のトップ企業とされる三井不動産も、42年からマンション計画に着手、43年6月に第1号の「百合ケ丘ガーデンマンション」が竣工した。当時すでに同社は、わが国初の超高層ビル「霞が関ビル」を竣工させており(43年4月)、この新事業を成功させた同社の社長江戸英雄は、「都市の空間開発の必要性」を力説しており、当然、都市住宅の高層化マンション建設には積極的姿勢をとっていた。37年に社団法人になった不動産協会の理事長として、業界最高の指導者であり、住宅事業の展開には以前から熱意をもっていた。30年代後半から宅地の開発、分譲は進めていたが、社内でも「土地だけの分譲」は半製品販売住宅も建てての完全製品販売をもっとやるべきだ、という機運が高まっていた。マンション計画については、先発の住友不動産や野村不動産などの担当者を訪ねて、いろいろと教えてもらった。かつて宅地開発では三井の方が先発で、後発の野村が三井に教わりにきていたが、マンションでは反対になったわけだ。「教えられたり、教えたり」ということだったが、とにかく、「百合ケ丘分譲地」の一角に、最初のマンションを実現した。このマンションの売れ行きはあまり順調ではなく、売り切るまでに一年はかかったが、この経験でいちおうマンションの業務を習得した。43年秋、不動産部に住宅課を設けた。将来、部に昇格させる予定のものであり、本格的に住宅事業に乗り出す体制を固めた。これより前の同年6月には、「白金マンション」に着工していた。6階建て43戸のこのマンションは、当時としてはかなりのデラックス版で、一戸あたり平均1500万円だった。それにもかかわらず、発売初日に仝戸売り切れるという好成績であった。市民化時代とはいえ、やはり高級志向の需要層もあったのだ。44年3月に竣工した。このあと、「札幌パークマンショッ」が45年9月に竣工した。これ以降、「パークマンション」のネーミングを採用し、「パークマンションシリーズ」と称した。東京での「パークマンション」第一号は「原宿パークマンション」(45年1月竣工)、続いて、関西での「夙川パークマンション」(46年1月竣工)を分譲した。この間の45年1月には、住宅課は予定どおり住宅部に昇格した。「パークマンションーシリーズ」は、
「上目黒」、「三田綱町」などへと大きく展開していった。わが国最大のビル会社であり、東京・丸の内に本社をもつ三菱地所のマンション事業は、三井不動産より1年おくれて44年からで、第1号は同年着工、45年4月竣工の「赤坂パークハウスであった。立地条件にすぐれた赤坂で11階建て67戸、やはりデラックス版で、1戸あたり最低で1000万円、最高は4000万円であった。これ以後、「パークハウス」のネーミングを採用、「パークハウスシリーズ」とした(三井、三菱ともネーミングに「パーク」を入れ、環境のよさを強調していた)。もっとも、本社のマンションは45年に第1号竣工ということだが、その前に系列会社によるマンションがあった。菱和不動産による「南品川マンション」、北菱不動産の「旭ケ丘マッショッ」(札幌市)、名菱不動産の「守山台マンション」(名古屋市)がいずれも44年に竣工している。本社のマンション進出の前哨活動ともいえるものだった。マンション進出の44年には、それまでの社長渡辺武次郎が会長になり、副社長の中田乙一が社長となった。社長になったころの中田は、渡辺の功績をたたえながら、次のように語っていた。「渡辺会長がビル事業に精魂を傾け、当社のビル事業をわが国最大の規模に確立するため、ほかの分野、たとえば住宅地の開発や住宅の供給などの事業にはストイックだったことは、当社の発展過程からみて正しいことであった。今後は、今日の事業基盤に立って、住宅などの分野でも積極的な発展策を進めていきたい」。「赤坂」で進発した三菱地所の「パークハウスーシリーズ」は、引き続いて、「下馬パークハウス」(45年9月竣工)、「松涛パークハウス」(同上)、「御殿山パークハウス」(同年竣工)を世に出した。たて続けに三ヵ所という、始めたばかりとしては快進撃であった。もっとも、売れ行きはすべて好調とはいえず、空室を埋めてしまうにはかなり時間もかかり苦心もしたが、とにかくマンション路線は碓立されたわけだ。これより先の43年には、住宅部が新設され、住宅事業の本格展開体制を固めていた。

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