ファミール東京シティグランスイート東京駅も徒歩圏になで、新幹線を利用するビジネスマンにもおすすめな物件。財閥系各社も本格的に事業展開していきます。大手不動産のうちで、もっとも早期にマンション事業を手がけたのは、初期の東急不動産を除くと、住友不動産であった。住友不動産はその名称のとおり、旧住友財閥系の不動産会社であり、30年前後までは他の財閥系不動産と同様、ビル経営を主体とした会社であったが、32年から宅地造成に乗り出し。さらにマンション事業も開始した。マンション第一号は、37年竣工の「目白台アパート」(賃貸)であった。こうした実績をもつ大手ということで。前記したように、社長の瀬山誠五郎は、曰本高層住宅協会の理事長に選任された。瀬山は、東京・日本橋の生まれ、純粋の江戸っ子。東大法学部を卒業後、住友銀行に入り、終戦のときは住友本社の東京本社次長であった。戦後は住友商事に入り、常務、専務をつとめ、その後に住友不動産の社長に就任した。「目白台アパート」の後、三九年には「浜芦屋マッショッ」を建て、40年代には、さらにマンション事業を伸ばした。日本高層住宅協会理事長となってからは、業界全体のリーダーとして活発に活動した。それ以前から不動産協会の副理事長にもなっていたが、高住協の理事長となってからは、不動産協会理事長の江戸英雄(三井不動産社長―当時)、日本ビルヂッグ協会連合会会長の渡辺武次郎(三菱地所会長=当時)と並んで、不動産業界の三長老と目された。業界関連の政策活動などで、この3人は労を厭わず、政府や国会方面への陳情、提言などでかけ回った。40年代に入ってからのマンション事業は、先発の勢いで伸び続けた。40年には「麻布アパート」(賃貸)が完成し、41年には「茨木フラット」、「芦屋グランド」、第二茨木フラット」の分譲、42年には「市ケ谷、麻布「ウス」などの分譲と進み、年間5~6棟のペースで建設していった。安田財閥系の束京建物は、42年からマンションに乗り出した。不況期を脱し、マンションにも新生面が開け始めたころだ。当時の社長は弥富武であった(同社の社長はほとんど富士銀行出身者が着任することになっており、弥富も同銀行出身で38年に就任)。
そのころ、弥富は業界の内外の人々に「都市高層化の必要性」を次のように説いていた。国民生産(GNP)の上昇と都市への人口集中は一定の関数で比例している。したがって、経済成長を期している今日、都市への人口集中は続くのだから、思い切った都市の建物の高層化と空地や公園の拡大が必要である。もともとわが国の国民一人あたり国土面積(可利用地面積)は、他国に比べてきわめて狭いのだから、とくに土地の有効利用の考え方を徹底させなければならない」。弥富の指示で社内に「マンション研究グループ」が置かれた。すでに宅地造成や建売住宅では多くの実績をあげており、その業務経験をもった管理職などがそのメンバーになった。全社的な研究の成果として、43年8月に、第1号の「藤沢マンション」が実現をみた。次いで同年11月には「上町マンション」も出現した。両マンションとも、発売日前から需要客の行列ができるほど好評だった。「上町」の方では、。4泊5夜”という長期の泊まり込みすらでた。堅牢な構造、標準施設の完備、そしてできるだけ低価格で、という方針によるものだった。。アパートよりいいものを、公団の分譲価格なみで”というのが、同社の方針であり、これがあたっての東京建物などともいわれた。あまり好評なので、社内にも購入希望者がでたが、弥富は「一般の顧客の迷惑になるから遠慮せよ」と指示して、購入を許さなかった。当時、販売の第1線にあたった住宅課長の林道三郎は自らもマンションに住み、「子どものためのプレイロット、緊急トイレ(広場で遊んでいる子どもが4階、5階の自宅まで行かないでいいよう、フロントに設置)、子ども用自転車置き場、同水飲み場」など、新しいアイデアをマンションにとり入れた。44年には「広尾マンション」、「北沢マンション」、45年には「弦巻マンション」、「ニュー田園調布」と、その供給は増大していった。近隣施設:マルエツプチ