グランヴァン銀座東は、2003年2月築の地上11階建て、総戸数57戸、SRC(鉄骨鉄筋コンクリート)造の高級分譲賃貸マンション。高級マンションが売れなくなり、各不動産会社は同市民化路線で血路を開く秀和の社長小林茂も、40年前後の不況期には悪戦苦闘していた。建築技術者出身であり、かつ銀座のソシアルービル(小型のバー・ビル)の建設・経営からスタートした小林は、38年からマンション業に乗り出していた。そのころ、『マンション殺人事件』という映画があって、はこの題名から「マンション」を嫌い、「レジデンス」というネーミングでいくこととした。進出後の短期間に「青
山」「鳥居坂」「赤坂」の三レジデンスを建て、40年には赤坂に、「TBRビル(東京ビジネスーレジデンスビル)」(11階、46室)を竣工させた。新しいタイプのオフイスーマンションであった。その斬新さは世の注目を集めたものの、実は、このころの秀和は経営ピンチのどん底にあった。赤坂の一等地にかなりの規模の建物をつくるには、当時の秀和の事業力、資金力ではかなりの無理があったのだ。オリッピック後の不況も深化していた。社員が激減し、小林社長はじめ全社貝が月給1万円という月もあった。このピンチを、小林は持ち前のガンバリと、マンション大衆化・市民化路線の方向で血路を開いていった。41年秋に売り出した「外苑前レジデンス」は、2DK1戸が340万円、3年ローン付きというもので、。家賃で買えるレジデンス”のキャッチフレーズで好評を博した。最初の「ローン付き分譲高層住宅」であった。秀和はそれ以来、次々とこの種のレジデンスを建て続け、好調な売れ行きで、経営を回復、業界有数のマンション会社となった(45年度では8棟・893戸、業界第2位であった。弁護士から実業界に転身した中銀マンシオンの社長・渡辺酉蔵も、当初は銀座や新宿の小型ビルの建設、経営からスタートしていたが、30年代末ごろからマンション業に進出し。当初は熱海でリゾートマッションを建てていたが、40年代はじめからは、市街地のマンションも建て始めた。もっと、この当時、この会社もやはり不況下での経営苦難期にあったが、「前途に希望のもてる事業を」と考えて、一般の人たちも買えるマンション」を建てることにした。40年5月に「中銀青木公園団地」(7棟・176戸)を、42年7月に「中銀新青木公園団地」(2棟・102戸)を肆設し、分譲した。いずれも埼玉県の川口市青木町で開発したもので、2DKの市民一般向けの住宅であった。両団地とも売れ行き好調で、中銀マンシオンは経営危機を乗り切るとともに、マンション市民路線を進むこととした。この後、目黒、三田、世田谷、上野、杉並、南長崎などの東京都内各地で、次々と低価格の中銀マンシオンを建設するようになった。一戸の規模をやがて3DKに広げていった。目黒地区を本拠に朝日建物の活動その初期には、東京・目黒地区を本拠としてマンション事業を展開した朝日建物も、やはり20年代末ごろからのマンション会社で、40年代はじめは、市民化路線によって事業を伸ばした。この会社の源流は、山梨県・谷根町の材木商・長田商店であった。社長の長田義雄は、昭和30年代から建売住宅に進出していたが、この時代の建売住宅では、低価格にするために材質を落とす傾向が強くなってきて、長田の老舗材木商としての誇りには、そういう傾向への追随を許さないものがあり、建売住宅事業をやめた。その代わりにマンションヘの進出を考え、30年代末から弟の高明(専務)と、マンションの研究を始めた。建設する地区をあれこれと調査し、まずは目白、原宿、目黒の三地区に候補をしぼり、その上で社会的な立地条件、法規関係、地価水準などをくわしく検討した末、目黒地区を選んだ。目黒区はこのちょっと後に用途地域指定の変更があって、41、42年ごろはマンション建設の適地となり、マンションのメッカとも呼ばれるようになった。長田兄弟はその適地性を先取りしたともいえよう。39年末に目黒で「三共マンション」を竣工、同時にマンション会社の朝日㈱を設立した。このマンションの経営については、社内に賃貸と分譲の両意見があったが、結局は分譲した。オリッピック後の不況期だったが、同社はこの後、年に一棟ずつくらいを着実に建て続けた。近隣施設:マルエツプチ