ザ・パークハウス築地入船


ザ・パークハウス築地入船は、三菱地所レジデンスの手がける高級分譲マンション。高級マンションのデラックス化競争の行きづまり始めます。昭和30年代後半のマッション供給は、一般的には、会社役貝、芸能タレント、プロースポーツ選手など特殊な人々を入居(購入)対象としており、「高級市街地アパートしというイメージで売り出されていた。そして、業界内での販売では、一種のデラックス化競争を展開していた。このデラックス化競争が、40年代に入ると行き詰まりをみせるようになった。もともと特殊な階層の人々を対象としていたので、需要層はそう厚いものではなかったし、それに、東京オリンピック後の反動不況期に入り、金融引き締めの強化なども、マンションの売れ行きを後退させた。デラックス競争時代の最終期を飾った著名な二つのマンションのことを記そう。 医師出身の実業家・宮田慶三郎を社長とする東京コープは、35年からマンションの建設、分譲を始めていたが、40年に、東京、原宿駅前に「コープーオリンピア」(39年オリンピックにちなんだネーミッグ)を完成させた。10階建て、延べ床面積2万6000平方メートル(約8000坪)、当時としては最大級のマンモスーマンションであり、かつ、最高級のデラックスーマンションであった。総工費は約36億円、イタリアで開発された多面採光の構造をとり入れたりしていた。このマッションの中には、上下二戸を一戸に合わせ、その中心に吹き抜けをつくり、採光をよくして熱帯植物の温室も設計という超豪華版の一戸があり、分譲価格は一億円であった億ション時代の20年前であり、空前の高価格であった。一部を賃貸にしたほか、下部は店舗やオフイスとし、自社(東京コープ)もそこで中華レストラン・南国酒家を経営した。このコープーオリンピアは、ともかくも売れた。次いで、東京コープは、いまひとつのデラックスーマンションの建設にも着手していた。東京中野駅前の「ブロードウェイセンター」である。10階建て・延べ床面積7万1600平方メートル(約2万1700坪)という、さらに大きいもので、4階までが店舗(507店)、5階から10階が住宅(約250戸)、屋上には庭園をつくり、プールも設けた。総工費は約62億7000万円、工期約2年半で完成した。だが、この工期中に、時代の社会経済は変転し、店舗も住宅も期待したような入居が進まなかった。最終的には満員になったものの、非常に長期を要し、その負担のため東京コープの経営は悪化し、宮田は、その後に予定していた池袋などでのコープ計画を断念、マッション業界から撤退した。マンション大衆化のはしりオリンピック後の反動不況期には、マンション業界は苦境におちいっていた。住宅全般の取引が鈍化しており、とくにマンションには、住宅金融公庫融資はもちろんのこと、一般の住宅ローンもついていなかった。当時の標準的なマンション価格は、一戸あたり800万円ないし900万円といったところで、郊外の一戸建ての500万円~600万円より高かった。そして、職住近接をもとめて現在の住居である郊外の一戸建てを売り、市街地のマンションを買う、という人が多かったのだが、その二戸建てがなかなか売れず、したがってマンションも買えない、というケースが増えていたのである。多くのマンションが、建築完成後一年、二年とたっても、なお空室を残している、といった事例や、しかたなく大赤字で値下げ分譲したという話などもでていた。
こうした停滞期を打開し、活路を見出した路線は、業界の一部から始まった「マンション大衆化・市民化路線」ともいうべき方向転換であった。この停滞期に入り始めた39年に、初めてマンション建設に乗り出した長谷部建設の社長・長谷部平吉は、当時のことを次のように語っている。「最悪の時に始めれば、もうそれ以上は悪くならないという信念がよりどころだった。悪い材料はみんな出揃っているのだから、今後は少しずつは良くなるはずだ、と思って始めた。とにかくよい土地をできるだけ安く買い、努力して、もっとも経済的で合理的な建物をつくることだ、という方針で当たることにした」。長谷部の最初のマッションは、東京・杉並区の西荻北に建てた6階こ14戸のこぢんまりした「西荻フラワーマッショッ」であった。分譲価格は2DKの1戸355万円から375万円2戸が44.5~46・0平方メートルという大衆版であった。40年2月に竣工したが、不況期だったにもかかわらず、この24戸は発売後たちまち売り切れた。実に、マンション大衆化時のはしり、ともいうべきものであった。「西荻」に続いて、「上馬」、「大久保」の各「フラワーマンション」を建て、これらも好調な成績だった。このあと、41年3月に、マッション販売の専門会社として長谷部産業を創設した。次の「中野フラワーマンション」のころから、マッション事業を本格化した。これら初期のものは1棟が20~40戸の小規模なものだったが、ブームが進んできた43、44年ごろには、60~80戸ほどのものも建てた。価格は、一般に上昇していたが、市民レベルのものとした。「デラックスーマンションはつくらない」というのが信条だった。なお、彼のネーミング「フラワー」は、少年時代、母から「花なき里には宿とるな」といわれたことからのものだ。「花のないところでは人情も薄く、宿をとるな」の意で、反対に「花のあるところこそ、住まいにすべき」の意である。近隣施設:ラルズマート

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