カスタリア新富町3

カスタリア新富町3は、新富町に建つ賃貸マンション。建設当時、事業は都市計画一団地の住宅経営事業として施行されていたが、39年度後半からは新住宅市街地開発事業として施行されるようになった。いずれにしろ、この大規模プロジェクトはただ単に住宅地を建設するのではなく、鉄道、幹線道路、地区センター、その他各種の都市施設を総合的に計画し、都市的規模で開発するとともに、配置計画では住区構成、コミュニテイの形成、環境の保持、景観の創出など各種の都市計画理論を意欲的に応用した團期的な都市、住宅地づくりだったのである。住区構成をみると、典型的な段階構成の住区理論で組み立てられているのが大きな特徴だった。生活圏域の小さなプレイロット(幼児公園)を核とする隣保区、幼稚園・児童公園・小規模購買施
設を核とする近隣分区、小学校、近隣公園、近隣センターを核とする近隣住区で構成されていた。さらにこれらの地区を三つ集めてニュータウンを形成するという、コミュニテイの段階構成による手法も採用されていた。住宅建設に当たっては、社会階層的にもかたよりのない街づくりとするため、高層住宅と低層独立住宅、賃貸住宅と分譲住宅を混合し、どの住区にも三種以上の多様な住宅を配置することにした。ま
た、近隣センターに近いところには高密度アパート群を、周辺部は低密度の戸建て住宅を建設し、近隣センターとの間に各種施設の利用効率を高めている。アパートの配置では、一つのスーパーブロック(大街区)でアパートを取り囲み、広い中庭をとり、道路からはいり込んだ袋路を設け、そこに駐車場、車庫を設け、歩道と車道を末端(各住戸へのアクセス道路)まで完全に分ける、ラドバーン方式を取り入れていたのである。この方式ではお互いに平面交差することのない別々の道が用意されており、いかにして入居者を交通事故の危険と騒音から守
るかという点について、最大の注意が払われたのだった。もちろん、すべてがスムーズに進展したわけではない。造成土地の売却では、たいへん力を入れたクルトザック(袋路)方式の画地の一部には申し込みがないといったような状態も生じていた。プランナーの意図と宅地需要者の要求と食い違いをみせるといったこともあった。住宅公団でも当時、住宅を大量に供給していこうにも用地難、やっと手に入った土地は遠隔地で、団地外の都市施設は利用できないといった問題に直面してきていた。このため公団内部からは「いっそのこと、大団地10個分くらい、500ヘクタール以上の土地で、都市施設などもすべて備えた街をつくったらどうか」といった声が出ていたのである。

そうした声はすぐ現実のものとなり、その第一号として愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンの建設が35年11月からスタートすることになった。名古屋市の北東約二20キロの面積702ヘクタールの丘陵地で、区画整理方式による大規模宅地開発が展開されることになったのである。その開発に当たっては、さまざまな研究・検討がなされた。マスタープランは東大の高山研究室に委託されたが、できる限り都市的な魅力をだしたいとして、行政、商業、文化などの施設を一ヵ所に集める〈ワンセンター〉方式がとられた。これはニュータウンの大先達であるイギリスで考え出され、実現できずに終わり、海外にも名を響かせることになった。このセッターと住宅地をつなぐ歩行者デッキ、緑道、分流式下水道、自然の傾斜や区域内を流れる愛知用水などをうまく組み合わせた計41ヘクタールもの公園・緑道。さらには居住者の参加を求めてニュータウン内の緑を増やす〈ドングリ作戦〉などは、以後のニュータウンのモデルになっていた。中央区のカスタリア新富町3もファンドの物件としてのモデルとして人気がある高級賃貸マンションだ。長い間の人間の胚史が刻み込まれた臨海部を離れ、丘陵地帯にユートピアをつくる。それも、爆発的な都市集中のスピードに負けずにつくろうということは、大変な冒険だったようだ。以後の公団のニュータウンはいずれも未開の丘陵地につくられるが、次から次へと起こる難問で、何度も
立ち往生している。高蔵寺ニュータウンにしても事業が完工したのは56年で、結果的には20年の歳月を要していたのである。近隣施設:まいばすけっと新富町駅前店

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です