カスタリア新富町4

 

 

2004年築の賃貸マンション、カスタリア新富町4は銀座も徒歩圏に捉える新富町エリアに建っている。この動きを、同じ区内に住む一人の若い公団職貝が、深い関心を持って見守っていた。本社の宅地企画課で区画整理を拉当していた大塚雄司(現在・自民党代議士)だった。彼はこの青山通りの反対運動をなんとか解決できないものかと考えた。都がこの青山通り拡幅をオリンピック開催のために不可欠とみていることを知っていた。また敷地にさほど影響を受けない地主のなかには、麹町地区の動きに刺激を受けている者があるところから、彼は「都や一部の地元民だけではなく、皆が喜ぶことを公団の力でできないものか」と頭をひねった結果、でてきた知恵は、やはり、住宅の共同立体化だったのである。地区住宅制度の第一号になった北青山三丁目市街地住宅周辺の地権者に、彼は「共同で立体化し、これをどんどん伸ばしていけば、必ずや銀座をしのぐ街ができる」と熱っぽく毎日のように説得に歩き回ったのである。とうとう8人(最終的には6人)が賛意を示し、公団関係者も加わり2550平方メートルの敷地に、地下1階、地上11階建て(4階以上が公団住宅)の共同ビル建設に漕ぎつけたのは翌36年5月だった。この共同ビルは38年6月に完成する。これを契機に、青山地区では、これを含め42年までの間に、計4地区(地権者35人)約6600平方メートルの土地に、4つの近代的なビルが生まれることになる。公団の支援こそあったものの、都市再開発法もない時代に、補助金や税金の優遇措置もまったく受けない任意事業として、この再開発を成功させたことは驚くべきことである。この事業を通じて街づくりの一つの方式が編みだされた。共同ビルは、地権者が出資して設立する会社が所有する。地権者は、以前所有していた土地の地価と面積に応じてその共同ビルを利用する、という方式である。この方式はいつの間にか〈大塚式立体換地方式〉と呼ばれるようになったが、最近の都市再開発が、個人所有の色彩の強い〈区分所有方式〉であるのに比べ、青山地区では、今もって参加者が一体感を深め合っていることは注目されよう。これに刺激されて都内だけでも1時は30地区が名乗りをあげていたが、結果的には、青山地区と同様、熱心なリーダーに恵まれた三鷹地区と高津台で地区住宅制度による共同ビル化に成功しただけで、他地区は具体化しないで終わっている。その原因の一つとして、公団関係者は、複雑な地権者の利害調整に、あまりに時間がかかりすぎたことと、公団自体がもっと効率的な面開発方式に重点を置くようになったことが背景だ、とみている。

固区分所有法の制定された、昭和30年に発足した住宅公団は大都市とその周辺に次々と立体・集合形式の住宅団地を登場させたが、民間も30年代後半になるとマンション建設に乗り出し、その白い高層住宅群は都市住宅の新しい象徴として、わが国の住生活にあらたな一ページを加えることになった。建設戸数が増加、なかでも分譲住宅の供給が増えていくとともに、マンションの共用部分の運営・管理をどうしていくかが、大きな問題になってきた。分譲マンションは、一団の土地の上に集合住宅を建設、居住者はその専有する住宅部分のほかに、土地、建物の。躯体、屋上、廊下、階段、給排水施設などを他の居住者と共有することになるが、なんといっても新しい居住形式だけに、居住者の間に共有物を管理する組織も知識もなく、十分な管理が行われず、日常生活に支障をきたしたり、管理をめぐってトラブルが多発してきた。なかには分譲業者が共用部分をあたかも単独で所有しているかのごとく振る舞い、大家気取りでいたり、居住者も区分所有者としての権利を知らず、まるで「店子」気分でいるようなことが、初期にはみられていた。近隣施設:中央区役所

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