グラン・アベニュー銀座東

グラン・アベニュー銀座東 外観

グラン・アベニュー銀座東

近隣施設:中央区役所

このほか、公団住宅には、これまでH本の住生活にみられなかったさまざまな新しい住形式が導入された。シリンダー錠の採用は一見地味だが、たった一個の錠を一枚の鉄の扉につけることによって、たくさんの人が積み重なって住む集合住宅のなかで、自分の住まいのスペースを明確に仕切ることを可能にしたのである。この導入も、海外生活が長く、アパート暮らしの経験の豊富だった加納総裁の提案によるものだった。彼はシリンダー錠の効用について、昭和三〇年こ一月の福岡での地鎮祭第一号のあいさつのなかで、次のように述べている。「アパートメントの場合には、生命と財産を守るのは、カギでありますから、最上等の錠前とカギを製造させるということで、これらの業者と相談して良いものをつくらせようとしています。もし世界的水準の良いものができだすということになれば、単に日本の住宅の上に貢献するばかりではありません。日本の輸出品になるかもしれないのです」と指摘、公団職員に「日本一流のカギ屋になれ、立派なシリンダー錠を開発しろ」と(ハッパをかけたのである。シリンダー錠は要するに、同じ構造でありながら、少しずつ違いのあるカギを極めて大量につくり得る錠なのである。公団住宅のような多数の規格型のアパートの独立性を確実に守るのには、うってつけの錠だったのである。ただ泣き所は、ステンレス流しなどと同様に、当時としてはかなり高価で、しかも、大量に揃えるにはたいへんだったが、この壁もメーカーの協力で、解決されることになった。よく団地住まいやマッショッ生活の利便性として「カギひとつかけておけば、安心してどこにでも出かけられる」ということが例に引かれるが、こうした評価が定まるようになったのも、公団が、思い切って初期のうちからシリンダー錠の導入に踏み切った効用だろう。

ただ長い間、木造を中心とした日本家屋では、カギひとつで財産を守るといった考え方になじみがなかったため、シリンダー錠導入当初には、さまざまな悲喜劇が演じられていた。鉄の扉と頑丈なシリッダー錠があれば、盗難は絶対ないだろうと考えられていたが、いざフタをあ
けてみると、各地の公団住宅でドロボウ被害が続発したのである。調べてみると、カギそのものは壊されていなかったが、ノブの脇のドアと壁のすき間にドライバーを突っ込まれ、簡単に開けられてしまったのである。公団ではあわてて、ノブの脇に細長い鉄板を溶接でくっつけてすき間をなくす応急工事を、仝国で行わねばならなかった。「マスターキー」も公団が頭を痛めた問題だった。三鷹の牟礼団地に初めて人居者を迎えた冬。屋上に積もった雪が太陽に溶けて、屋上が水浸しになった。当時はまだ防水面が不完全だったため、この水が四階の部屋から順に、壁を伝わって下の階まで落ちる騒ぎとなった。知らせを受けた専任管理人が四階の各部屋を調ぺようとしたが、あいにく一軒が冬休みで帰省して留守。そこでマスターキーを支社から取り寄せ向かい側の住人立ち会いで室内に入り、やっと漏水箇所を突き止めた。この騒ぎがきっかけになって、マスターキーは、団地ごとに専任管理人が保管することになった。ところがある団地で、管理人がこのマスターキーを茶筒に入れて保管していたところそっくり盗まれる事件が起きた。ずっしり重い茶筒なので、金でも入っているものと間違えられたらしい。翌朝、青くなった公団は、都内の錠前店を総動貝して、その日のうちに100戸近いシリンダー錠を全部取り換えるという騒ぎとなったこともある。この事件のあと、専任管理人の一人がカギのメーカーと共同して、一本のマスターキーで何戸の鍵を開けることができるかを研究、その結果、一本で3000から4000戸に使用可能なことがわかった。このため、何本も束になり、重かったマスターキーを1団地1本にすることにしたが、こうなるとマスターキー一本にかかる責任度は極めて重くなった。
初期の大団地といわれた「ひばりが丘」などの専任管理人は2000戸を超すマスターキーが盗まれたら大変」とカギをお守りのように鎖で首にかけ、風呂に入るにもはずさないほど用心したという。これでは管理人のプライバシーが保てないということで、39年にマスターキーそのものが廃止された。現代の高級賃貸では考えられないことであるが、こうした試行錯誤を繰り返しながら、カギのある生活は日常生活のなかに定着していくのである。風呂といえば、浴室も公団当初の売り物だった。今10では、バス付きのアパートの方があたり前になってしまったが、日本人ほど風呂好きでない欧米では、現在でもシャワーだけのアパートが多い。それを真似したのかどうか、戦前の住宅営団をはじめ、戦後の公営、民営アパートでも、つい10年ほど前までは浴室のないのが当然のように思われていたのである。また銭湯に親しむ歴史の長いわが国では、〈内湯〉のある家庭は恵まれた一部の階層だけだったのである。それだけに、狭いながらも浴室があるということは、公団住宅の家賃の割高感を解消するための大きな武器となっていた。

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