プルデンシャルタワーレジデンス

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東京に乗り込んでいたマッカーサー連合軍総司令官は9月10日、東京・お壕端の第一生命本社ビルに接収命令を出した。同ビルは占領期間終了の27年までGHQ(連合軍総司令部)となった。この接収に続いて東京では66件・約71万平方メートルのビルその他が接収された。洋式住宅なども接収された。10月9日成立の幣原喜重郎内閣は11月総理直属の戦災復興院を設けた。戦災都市復興と住宅建設の指導機関である。だが当時、内務省が存続、その国土局が引き続き建設行政に関与していてこの後23年1月の建設院発足まで、建設行政には両機関の2元的状態が続いた。こうした状態の下でも、20年の秋から冬にかけて国民からは住宅要求の切実な声が上がっていた。当時の都市では約42万世帯が仮小屋や壕舎に住んでいた。政府は応急住宅建設が思うように進まないこともあり、冬を目前にした11月20日、住宅緊急措置令を公布した。罹災しなかった建物、寄宿舎、空家に知事の権限で使用権を設定、それらの建物を戦災者や引揚者に提供できるという法規で、これによって23年までに約7万5000戸を提供できた。この当時、民間にも住宅建設計画の提案があったが、いずれも実現しなかった。その一つは終戦直後、三井本社が立案した、「住宅20万戸建設」を含む三井復興事業会社案であったが、財閥解体で陽の目を見なかった。
いま一つは五島慶太東急会長の「住宅3万戸建設計画」であったが、これも同会長の公職追放や東急自身の資金難などで挫折した。

翌21年もわが国は激動に揺られ続けた。激しいインフレ進行の中で2月には新円切り替えと旧円預貯金の封鎖が行われた。3月には都会地転入抑制緊急令を公布、都会の人口増、食糧事情悪化のため5月末まで東京など1都24市への転人を禁止した。この実施は実際には22年末まで延長された。5月に第1次吉田茂内閣が成立、その下で復興院は住宅対策を進めた同院に住宅担当の建築局設、臨時建築制限令公布=不急不要建築の禁止を命じた。なお、五月にGHQが政府に指令した「公共事業計画原則」では「住宅建設は4政府は20年に罹災都市緊急住宅対策への国庫補助の方針を決めており、21年から国庫助住宅建設を本格化することとした。また、21年からの石炭などへの傾斜生産方式にともない炭鉱住宅に力を注ぐとともに、引揚者や開拓者の住宅も建てた。これらの住宅の規模は、木造が団地10戸、1戸平均約10坪(33平方メートル)、RC造り1棟24戸1坪、ブロック1棟8戸であった。11年度は木造のみ、他は22年度以降。炭鉱住宅は復興金融公庫から建設資金の全額融資を受け、22年1月~23年6月間に約7万3000戸を建設した。また、国庫補助額は引揚者住宅には建設費、開拓者住宅には4分の3を交付、24年までに前者を約1万9000戸、後者を約9万9000戸建てた。21年度は木造約2万6000戸を建てた。
民間の経済界では4月に経済同友会、8月に経団連と日本商工会議所が発足し、まとまりを見せ始め、一方、総同盟、産別会議などの労働界の組織も8月にでき、戦後体制が徐々に整備されてきた。だが、世情はなお不安定であった。財閥解体や農地改革の進行が波紋を広げ、労働組合の生産管理闘争が続発した。住宅事情も改まら、8月に束京の引揚者400人の麹町小学校占拠事件が起きた。民間自力の住宅建設も始まっていたが、ヤミ成金などは別として、一般個人には資金不足に加えて
資材統制や建築許可制があり、本格化には至らなかった。住宅・不動産業界はこの年から事業を再開したが、建築が困難なので宅地分譲から始めていた。東急は2月に戦後初の宅地分譲を行い(神奈川県鵠沼)また、戦前からの中堅分譲業者も事業を再開、東京では中央線、山手線の洽線などで宅地分譲が見られた。

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